題「教会の使命」マタイ28:19-20

 私たちの教会は、今年で創立89周年を迎えた。昨年、6月の献堂式をもってこの新会堂を主におささげしたが、早1年が経過した。今朝、改めて教会として現在と将来のために、私たちの立ちどころを確認したい。

 さて、クリスチャンは毎週礼拝に来る。暇だから他に行くことがないので来るのではない。それぞれの信仰による確信と志を持って集っているのである。私たちも多くの世界教会の一員としてこの教会に集っているのだ。
 では、神は何のためにこの世に教会をお建てになって、私たちは何のために教会に集っているのであろうか。つまり私たちの教会の使命は何なのか。使命(mission)とは、辞書によると使者として命じられた命令や用向き。使者としての務め。役目のことあった。それを全うするとは、「成し遂げること」であろう。因みにMissionayとは、使命の働きに携わる宣教師のことである。

 ヨハネ15章16節によると、キリストは弟子たち(教会)をこの世から選びお召しになられた。そして、再びこの世にお遣わしになり立てられた。それは、信仰の結実が与えられその実がいつまでも残るためであった。これは教会の働きと使命を示唆していると思う。私たちクリスチャンは主の十字架の贖いと救いにより驚くべき恵みと祝福の領域に招き入れられている。それは、自分だけの幸せや満足のためではなかった。主は、救われた者たちによりこの世において使命を与えて用いようとしておられるのである。

 教会の使命について聖書に教えられている。
①礼拝により神の栄光を現わすこと。
 私たちが救われた最大の目的は神を礼拝することである。贖われた神の民として、共に集い、神を崇め、誉め称え、お仕えするのである。これは恵みであり特権である。説教を聴くためではなく、トータルとして賛美、祈り、聖餐式、献金などすべてをもって主なる神を礼拝するのである。このように、人間存在の第一存在目的は、神を礼拝してその栄光を現わすためである。これは、デボーション生活とは別物だ。個人的に聖書を読み祈っているから神を信じ礼拝していることにはならない。まず「共に集い」礼拝することだ。

②教会が主の身体として霊的に成長すること。
 教会とはクリスチャンの群れそのものであるが、全体として信仰と知識と愛において成長することを目指すのである。信者の存在と奉仕によって教会の徳が高められ、主イエスの品性に似た者と変えられていくのである。

③ゴスペル(福音)をこの世に宣べ伝えること。
 福音書には、それぞれ世界宣教命令が記されている(マタイ28:19.20,マルコ16:15,ルカ24:46-48,ヨハネ20:21-23)。神はこの世に対して政治的改革をして各国をキリスト教化しようとしておられるのではない。また神学的に確かに神の選びや個人の自由意志の問題があり、一様に教会の福音宣教により、すべての人々がキリストを信じる訳ではないだろう。
 しかし、教会はこの世に対して、十字架の福音を知らせ神の救いを提供していく責任と義務があることを覚えたい。パウロは、ローマ書1:14-16のところで、「わたしは、果たすべき責任ある。切なる願いは、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥じとしない」と語っている。そして、この伝道は福音を聞いた人々が信じて救われるだけではなく、「弟子として整えられていく」ことが含められている。

 では、弟子とは何か。弟子(Disciple)は、ラテン語のdiscipulusからきており、生徒、学ぶ者の意である。2世紀の初頭イグナティオスは、彼自身この言葉を殉教者と同意語として使っている。
 キリストの弟子とは、ア、使徒。正統的派遣者。イ、キリストに学ぶ者。ウ、キリストのために犠牲的に生きる者。エ、他の人をキリストの弟子とする者。またその働きに携わる者である。そして、ここで語られている「行って」「バプテスマを施し」「教えよ」は、キリストの弟子が真の弟子となるための順序である。
 救い主を信じ地域教会の信徒となった人は、その教会の交わりと学びと訓練によって成長していくのである。それは、教会の大切な任務なのである。

 柘植不知人師の「活水の群」での伝道者としてのお働きは、たった4年であった。しかし、これまで歴史を振り返ってきたように、その間驚くべき神の御栄えを拝することができた(救われた者12万人。病い癒された人6万人)。主イエスの御名を崇めるばかりである。
 柘植師の召される前のことを先輩の先生方から伝え聞いてきたことの一つに、柘植師は、大勢救われていく人々に対して「弟子造り」のためにあまりに時間がなかったことを悔いておられたそうである。やはり、柘植師も聖書によって教えられた真理を知っておられて、そのことを実行してしようとされたのであり、またその不十分さに慙愧の念をもっておられたのであろう。福音の価値と尊さ、そして一人でも多くの人々が救われ整えられることを何よりも願っておられたのである。

 さあ、私たちも同じことを共有させていただき、与えられている教会の使命を果たしていこうではないか。私はかつて18歳の時、東京の一夜の集会により幼き頃の素朴な信仰が呼び覚まされてキリストを信じ伝道者になる決心をして歩み出した。今、もう一度初心に戻ってこの記念を機に志を新たに踏み出していきたいと願っている。そして、この年度聖句として「永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです」(ヨハネ6章68節)の御言葉を掲げている教会として、皆さんとご一緒に労していきたい。

 最後に副次的教会の使命として加えておきたいことは、この世において教会は、「あなたがたは地の塩である。世の光である」(マタイ5:13-16)と言われているように、「純粋の孤立」ではなく「純粋の埋没」に生きる必要がある。決して「塩のかたまり」として自分たちのことだけのことを考え満足し没頭していてはならない。それも主の御心ではない。教会は、この世にある教会である。教会が社会を祝福し、良きものを分かち与えて奉仕することができたら何と幸いであろうか。私たちは、主の助けと導きにより、社会貢献をすることを忘れてはならないと思う。
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