マタイによる福音書11章28節の聖句は、あまりにも有名です。「すべて疲れた人、重荷を負う人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(新改訳)
この御言葉によって世界の多くの人々がキリストの救いに与ってきました。主は、今も傷ついた両手を広げて、この世に向けて、「我に来たれ」と招いておられることを覚えます。
さて、コロナ禍、世界と日本は未曽有の状況下において、なおその闘いの中にあります。新型コロナウイルスは、4年目に入りだいぶ収束してきたものの8月の第9波が懸念されています。確かにこれまで国内外に多大な影響を与え続けています。ある記録を見ると日本でここ数年コロナによって自殺者数がリーマンショック後、増となったことが報告されていました。理由は、この感染症に関連づけられる経済問題、健康問題、家庭問題、孤独等です。顕著に表れていることは、女性と中高年層、若年層が増えているとのことでした。自死の理由として様々あげられますが、突き詰めていくとそれらは、それぞれの人々が背負っている人生の重荷ではないでしょうか。
自分で背負い込む能動的重荷。そして、状況や他者から無理やり背負わされる受動的な重荷があると思われます。どちらも人を疲れ果てさせ衰弱させます。精も根も尽き果てさせます。絶望の淵に落ちこんでしまい這い上がることができなくなります。もうこれで自分はダメだなぁ。もはや生きていくことができない。もう終わりにしたい。強いと思われる人も一度闇の中にうずくまってしまうならば、魂を飲み込んでしまおうとする死に誘う負の力に打ちのめされてしまいます。そして、すべてを忘れて自分の人生に決着をつけたいという衝動にかられてしまうのです。
実に主イエスは、このように命の灯が消えそうな人々に向かって愛と真実をもって語られるのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのところにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(28節)と。この御言葉は、深く人間の心の琴線に触れ大きく動かすことができる不思議な力があります。このキリストの招きに答えた者に、神さまは真の安息を与えてくださいます。もはや死ぬ必要はなくなるのです。どのような山や谷が人生に立ちはだかってもそれを乗り越えていくことができるようになるのです。その秘密は、イエス御自身にあります。
第一に、イエス・キリストの中に人間の根本問題である罪の赦しがあるのです。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」(ローマ8章1節)とあるように、イエスのもとに来る者は、その罪を裁かれることなくあの歴史の事実である十字架の出来事が自分の罪の刑罰の身代わりであったことを信じるならば、その信仰によって罪赦され清められ安心と喜びの中に生きるようにされるのです。罪と肉性の解決です。
第二は、心配からの安息です。「神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるがよい」(第一ペテロ5章7節)とあります。人は心配しても病気は治りません。心配しても明日という日を止めることはできません。時と命は創造主の手の中にあります。「あなたがたに将来と希望を与えよう」(エレミヤ29章11節)と約束されるお方に委ねましょう。主は最善だけをなさるお方なのです。
第三は、神と共に歩む安息です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(第二コリント5章17節)「わたしたちは神の同労者である」(第一コリント3章9節)とあります。神の安息は何もしなくなることではありません。キリストにあって心が新しくされると、私たちに神さまにより動機づけられ使命が与えられるのです。何のために生きているのかわからない人生は空しく退屈なものです。けれども、救われ安息が与えられるならば、この世において神さまの使命を果たすことができるのです。
主はそのことを、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(29節)と言われました。くびきとは、牛の肩の上につける重い木の引き具のことです。これは、数々の人生の重荷の象徴でもありますが、それらはもはや取り除かれました。ここでの主のくびきは違います。イエスの「くびきは負いやすく、荷は軽い」(30節)のです。「負いやすい」とは、「よく体に合った」という意味で、「荷は軽い」とは、「愛によって負わされているので軽い」という意味です。
一人一人に与えられるくびきは皆異なります。担うべきものは、主の使命であり、十字架でもあります。それは、主によってよく吟味された良きものです。決して自分で負えないものではありません。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16章24節)と主は語っておられますが、主はご臨在をもって私たちに保証を与えられるお方です。「私は決してあなたにさよならを言わない」とおっしゃる主と共に歩むことができるのです。何と幸いなことでしょうか。
あなたの上i豊かな祝福があるように祈ります。
