題「翼の下」詩篇91:1-12

 B・F・バックストン師によると、詩編91篇の題目は「全能者の陰」、内容は、至聖所に宿ることを歌う詩であるとされています。一節の「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人」とは、至聖所を暗示し、神との交わりと神の保護を示すものです。そのような人こそ、神を愛し、知り、信頼するので、驚くべき恵みの約束が与えられているのです。今回は、特に「神の保護について」注目したいと願わされています。「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまこと大盾、また小盾である」(4節)とあります。詩人は、神が親鳥のように大きな翼をひろげ、その下にひなを覆うように、守ってくださるというのです。彼のその確信は、「神を避け所、わが城、わが信頼する神」(2節)とするところからの告白でした。この信仰によって他者に向かっても、勧め力づけているのです。

 神は敵の矢を防ぐ盾のようだ。すべての災い、疫病より守られる。たとえ千人万人が左右に倒れるようなことがあっても、災いは近づかない。悩みも近づくことはない(3~10節)。何も恐れることはない。これが詩人の信仰の確信なのです。ヘブル13章6節「主はわたしの助け主である。わたしに恐れはない。人はわたしに何ができようか」の御言を思い出させます。これは凱旋的確信といえるのではないでしょうか。

 このようにすべての災難から免れることができるのは、神を避け所とし主に留まっているからです(9,10節)。そして、11節から16節までの素晴らしい守りと救いが約束されているのです。

 しかしながら、一方で現実のお互いの人生において、ここに記されているような救いと助けと守りが与えられなかったと思われる悲しい出来事も起こっています。「約束が違う。神は何もしてくれなかった」と、神に対して憤りと怒りを隠さないで、叫びながら抗議の祈りをなさる方々もいらっしゃるのではないでしょうか。

 1985年8月12日(月)日本航空JA8119機、123便。羽田空港18時発、大阪伊丹空港18時56分着予定。このジャンボ機が離陸後、異常事態が発生。突然の衝撃音と共に垂直尾翼は大半が破壊され、尾部胴体が脱落。操舵不能となり機長の努力も空しく、18時56分30秒。群馬県多野郡上野村の山中、御巣鷹山の尾根に墜落。乗客524人中、520人の尊い命を失われました。しかし、奇跡的に4人が助かりました。この日はお盆休みであり、多くの一家の大黒柱のお父さん方が搭乗しておられました。家族のために土産を買い妻や子どもたちの喜ぶ顔を楽しみにしながらのフライトでした。けれども189名のお父さん方が亡くなられました。何という不条理、何という悲劇。何という悲惨な事故となったことでしょうか。神は一体何をしておられたのでしょう。神はなぜこのようなことをお許しなられたのでしょう。

 私たち信仰者は、このような事実をどのように理解し心の内に受けとめていけばよいのでしょうか。聖書信仰との関係はどう捉えればよいのでしょう。さて、ルカ7章11節から17節にナインの女の記事があります。彼女は夫を亡くし、一人息子に自らの人生を託して大切に育ててきたのですが、息子は死んでしまいました。葬りの日、母親は町の人々に支えられて葬りに出す途中、主イエスに出会うのです。主は、「この婦人を見て深い同情を寄せられ、『泣かないでいなさい』と言われました。このところで主が表されたお姿は、実は驚くべき御心が込められていたのです。

 当時のユダヤ人の神観念は、「創造者は、権威の神であり、ちりによって造られた貧しき人間などには一切影響されず、唯一厳然として自己存在されるお方である」というのが常識的なところでありました。しかし、ここで主は女の人生に起こった悲しい出来事にまさに影響され、五臓六腑揺さぶられて深い同情を寄せられました。

 天地創造の神が、すべてのものの権威者であるお方が、今一人のか弱い女に思いと心を向けられて、やさしく慰めの言葉をおかけになっておられるのです。ここに救い主の栄光があるのです。後に若者は主によって生き返るのですが、それよりもここでの主のお姿こそ神の真実な愛の証なのです。「女よ。この不幸だと思われる厳しい現実のただなかで、私はあなたに言います。私はあなたと息子を愛している。どんなことがこの地上であったとしても私はあなたを高価で尊いと思っているのだ。それを信じてくれるか」と主は語っておられたのです。ここに苦難と試練の解決の道があると信じるのです。

 尋常ではない苦難の人ヨブに主は、「人の人生に起こる悲しみと苦しみの出来事の意味など限界を背負っている人間にすべて理解できると思うか」と言われました。ここではじめて迷いの森に入り込んでいたヨブは、深い淵から抜け出すことができました。「ちり灰の中で悔います」と。これは、「主よ、人間にとってミステリーなことがあることが今わかりました。何もかも理解できるつもりの愚かな僕を憐れんでください。神のご愛を疑った僕をお赦しください。」と祈っているのです。私たちは、現実から神を見てはなりません。神から現実を見るのです。その時、私たちは全能者の陰に宿る者として再び信仰を回復して生きることができます。そして、「心を強くし勇んで生きる者」とされるのです。

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