| この夏も日本人の伝統的行事「お盆」が、8月13日から16日まである。盂蘭盆会については、すでに学んでいるので省略したい。 さて、夏の夜長因縁話の怪談で涼しくなろうという一般の方々がいるかもしれない。もしかしたら日本人は他人事だと因縁話が好きなのかもしれない。しかし、少し立ちどまって考えたいことがある。 よく聞く常用語として因縁の間違った用例として、「あの人は因縁が悪い」「自分は因縁が悪いので何をやってもだめだ」「「あなたは因縁に祟られいる」「あなたは因縁が悪いので諦めよ」「先祖を祭って悪因縁を断ち切ってもらえ」というのを聞いたことはないだろうか。このような事を真正面から受けとめてしまう人は、「自分の不幸(貧乏・病気・負傷・事業の失敗・受験の失敗等)は自分の責任でなく因縁が悪く先祖を恨む」「自身の敗北感と投げやりな気持ちで自ら努力することはない」「自分の不幸は先祖の因縁が祟っているので、神仏を拝み、先祖供養をして因縁切りをしなければならない。宿命観と恐怖感を持ってしまう」のである。 皆さんに知っていただきたいことは、最も日本人を惑わし無知な間違った道に陥れているものは、「因縁が祟る」ということである。そこで本当に因縁という言葉は、多くの人々が理解しているような意味なのであろうか。 実は、仏教において因縁はそういう意味ではない。「因縁」の「因」とは、原因のこと。「縁」とは、「ゆかり・縁由」のことである。結果には原因がある。そうならせたゆかりがあって、そうした結果を生むのである、という意義である。 仏陀の説によると、人間は現世にあって過去、現在、未来と、絶えず循環する因縁の法則性の中に生活している。それだから、善因善果、悪因悪果を知って仏道に精進することが肝要であると教える。彼は人生を哲学的に深く省察して「十二因縁」の法則性を説いた。この機会に調べていただきたい。これを端的にいうならば、仏教において、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって、苦悩を滅するための12の条件を系統化したもの。これが仏教の基本的な考えである。これは仏教の専門家のいうところである。 そのように因縁とは思想的なものであるのに、今日の日本人は、真の仏道について全く学ぶことなく、因縁といえば、何か自分の他に亡霊のような因縁という魔力が働いて人間に病気や不幸を与えるものと思いこんでいるのだ。また先祖を祭らないから因縁に祟られるのだ、と何の根拠もないご先祖様を引っ張り出してきて、不幸や失敗の責任を転嫁して恐れているのである。 この曲解された因縁話により、人を不安がらせ病気や不幸で悩んでいる人たちの心に巧みに入り込んで、信教の自由を建前に騙して、精神を縛り付け、また金銭を奪い取っている宗教団体があることを私たちは知っている。神道系、仏教系、キリスト教系の多くの新興宗教は、因縁話や罰が当たることでまことしやかに脅している。またご利益でも魚のように釣って人身を支配している。私たちは、本当はこのような因縁話を恐れる必要はないのだ。 さて、ユダヤ人は一般的に、人の人生の災禍は罪の結果であると考えられていた。この日、弟子たちはこの盲人について、その背景から主イエスに質問したのである。この時代において肉体の不幸は、罪の報いであるという伝統的考え方があった(2節)。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか」。 すると、イエスは、生まれなが目が不自由な男についてこう言われた。「本人が罪のためではなく、両親の罪のためでもない。ただ神の栄光が現れる機会となるためである」(3節)と言われた。また他にルカ13:2-5にも、ユダヤの伝統的観念を払拭するイエスさまの言葉が記されている。 ある時、ガリラヤ出身のユダヤ人がエルサレムの神殿で礼拝のために供え物をしていた。するとローマの総督ピラトによって殺害されてしまった。そこで、イエスは「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(13:2,3)と。 確かに大きくいえばアダム以来の原罪のゆえに人間は滅びてしまう存在になってしまった。しかし、災禍がいつでもその人の罪のためであるとは限らない。旧約聖書のヨブ記の義人ヨブについても同じことがいえるであろう。本人がそれで人生の過去を振り返り反省したり悔い改めることがあったとしても、それについて第三者の誰かがその人を「罪の結果である」と断罪したり裁いてはならない。ヨブの友人のエリパズ、ビルダデ、ゾパル、そして、青年エリフは、その点において失敗した。人間の人生には「なぜ」と問うても全くわからないミステリーな出来事はある。どんなに深く哲学してもわからないことはわからないのである。 大事なことは、災禍の原因がわからなくても、イエスを信じる者にとっては全部益と変えられ栄光が顕されるということである(ローマ8:28)。「すべてのことが働いて万事が益となる」とある。 主イエスは盲人に不思議なことをして言われた。「地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた。「シロアムの池に行って洗いなさい」と。これは、神の子キリストの唾液に癒す薬効があったわけではない。言われた男がそのように従うかどうかが問われていたのだ。 すると「彼は行って洗った。そして見えるようになって帰って行った」(7節)とある。彼は信仰によって救われ癒されたのである。これが神の栄光の御業なのである(3節)。彼はこのことによって肉眼の目だけではなく、心の目も開かれて神を信じて生きるようになるのである。 かくして、この奇蹟によりユダヤ人の因縁話もふっとんでしまった。さあ、私たちの周辺にも迷信と妄信に囚われている方はいないか。姓名判断の因縁。土地や家相の因縁。縁起の悪い数字など。世間の因縁話に恐れている人たちはいないだろうか。明言したいことは「恐れるにあらず!!!」である。 どうか、ご一緒に主イエスの元へ行こうではないか。そこに解決がある。 |
題「日本人と因縁」ヨハネ9:1-3
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