| この20章は、モーセの十戒が記されている。 1. あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。(3節) 2. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。(4節) 3. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。(7節) 4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。(8節) 5. あなたの父と母を敬え。(12節) 6. あなたは殺してはならない。(13節) 7. あなたは姦淫してはならない。(14節) 8. あなたは盗んではならない。(15節) 9. あなたは隣人について、偽証してはならない。(16節) 10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。(17節) 最初の4つ(3,4,7,8節)は神に関する人間の関係に関するものであり、後の6つ(12-17節)は人間同士の関係に関するものである。興味深いことは、十戒は、創造主がお造りになられた人間の生きていく上で必要なことの基準をお定めになられたということである。神は、私たちがどのように行動するように造られているのかを、十戒によって示された。 神との関係、家族関係、人間の生命への関心、性、財産、言葉、思いを如何に人間が信仰によって選び取っていくべきかを教えている。今回は、第二戒にしぼって特別に学んでみたい。神は、第一戒において「あなたの神、主であるから」この名によってご自分を知らせているお方以外に、他の神々を持つことを禁じている。生ける真の神は人間にとってどなたなのかを示された。 第二戒は、反復ではなく、唯一の真の神の他には神々が存在しないことを当然として、どんな物も造ることを禁じている。この戒めの内容は、「上は天にあるもの、下は地の水の中にあるものの、どんな形も造ってはならない」(4節)とある。しかし、それは行き過ぎた教えではない。たとえば、幕屋には、いろいろな物の型が置かれていた。その中の神聖な所に、二つのケルビム(天使)の像があった。この戒めが与えられた後にも、ケルビムが翼で覆う贖罪所を設けられていた。それだから、人は何かの肖像を造ることを禁止されたのではなく、肖像を礼拝の助けとして使うことを禁止されたのである。 しかしながら、古くからカトリックが行っているような彫像や十字架のキリスト像を礼拝をするための助けにしていると主張しているが、それらは神にとって代わるものではなく、物質は霊的なものを助けることはできない。なぜ神を礼拝するに、人は彫像や絵画を造るのであろうか。それは、神を認識する霊的な感覚がほとんど死んでいるからではないだろうか。本当は、そのようなものがなくても、神を礼拝し仕えることはできるのではないだろうか。礼拝するためにも、「自分のために刻んだ像を造ってはならない」のである。 その誘惑は、人間崇拝にもつながっている。マリヤ像、使徒たちの像、果ては教会で働いている司祭にも特別な権能(司祭の告悔・信徒が神の前に罪を犯したことを司祭の前で告白し赦しを乞うこと)を与えている。これは、司祭が偶像なっているのだ。プロテスタント教会にとって聖餐式は主の出来事を記念として覚えて信仰によって贖いを確かめ救いを確認する場である。しかし、それ以上の意味を聖餐式(化体説)に与えてしまうならば、聖餐式も偶像となってしまう。パンと杯のぶどう酒はキリストの血と体にはなり得ない。 続いて、5,6節も誤解されてしまう箇所である。「ねたむ神」(5節)については困惑する。神の妬みは、他人の幸福や成功を妬むのではなく、創造主がその民に対して愛すればこそ、当然の主張として「要求される忠節」を示すものである。神は妬み(愛の集中)によって神の民の純粋性を保持されようとされたのである。ですから、この妬みは人間の利己的、自己中心的なところから発する妬みではなく、神の聖さにより発するものなのである。 「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」(6節)。この場合、罪に対する直接的な裁きと連帯責任とを区別して考えることが大切だ。 このようなお言葉がある。「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の罪を負わない、父は子の罪を負わない」(エゼキエル18:20)と。それはエゼキエル18:14-18にあるように、子が父の悪を見て反省し、神の御心に生きることを選び取るならば、親の罪の責任が子に負わされることはないのである。父親は自身の罪のために裁かれるのである。だが多くの場合、親子は互いに影響を与え合い子や親に連帯責任が生じることはある。イスラエルの歴代の王などの悪しき人格とお粗末な霊的な状態を見ると親からの感化は多大であると思わされる。しかし、その裁きは三、四代で留められるということである。子や孫の罪が自己責任で引き継いでしまうならば、その責任は当然本人たちにある。それなのにここでは、それでも三、四代でストップされるというのだ。これは憐れみである。神がひどいのではない。 しかし、神を愛し御心に適う人生を歩んで行こうとする者には、「恵みを千代にまで施す」と言われるのである。 すなわち、人があらゆる偶像を一掃し、神との間に何も介入させないで、神を礼拝し、神と生きた関係に入るならば、その子孫も必ず彼と同じように神を礼拝するようになる。ここに対比がある。一方は罪により三、四代にまで報い、他方は、千代にまで及ぶのである。つまり、今の時に親である自分自身がしっかりと神を信じて従っていくということが大事なのである。私の信仰が子孫の人生にも大きく影響するのである。信仰の継承を篤く祈っていきたいものである。 |
題「千代に至る祝福」出エジプト20:4-6
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