私たちの教会で、最近北海道の旭川にある「三浦綾子記念文学館」の経済的な支援のために献金箱を設置した。昨年は、三浦綾子の生誕100年を迎えて様々な記念事業をされたようではあるが、コロナ禍、文学館の臨時休館の影響もあり財政的に厳しいようである。私たちとしては、三浦綾子さんの小説と随筆がこれまで長きに亘り、イエス・キリストを宣べ伝えるために、主に豊かに用いられてきたことを知っているので、微力ながら何らかのお役に立ちたいと願っている。可能ならば皆さんにもご協力いただきたいと思う。
さて、1999年10月の朝日新聞の記事に三浦さんの死去について掲載されていた。見出しは、「氷点」「塩狩峠」原罪が主題 三浦綾子さん死去。小説「氷点」で知られ、キリスト教の原罪をテーマに多くの小説や随筆を書いた作家の三浦綾子さんが、12日午後5時39分、多臓器不全のため北海道の旭川市の病院で死去した、と記されてあった。たいへん興味深い紹介文ではないだろうか。三浦さんの文学者としてのご生涯の総括と社会に対するご貢献はそこにあったのである。彼女は、聖書のメッセージである人間の原罪、罪について作品によって率直に語り、そこからキリストの罪からの赦しと救いを人生を貫いて人々に伝えたのである。
さて、三浦さんが生み出された有名な小説はよく知られているところである。いくつか映画やテレビドラマになり舞台にもなった。ごらんになられた方々も少なくないことだろう。しかし、短編小説は三浦ファンのような方でないとあまり目にすることはなかったかもしれない。その中に、「尾灯」という作品がある。これが、私にとっては素晴らしいのである。普通に一読して受ける印象は、そこには希望も救いも何もないということであろう。けれども、そこに秘められた三浦さんが語っておられるメッセージがあるのだ。
かいつまんで物語をご紹介するとこうである。「定年を過ぎて5年になる主人公、平川良三が登場する。正月の朝、良三の元部下、坂崎と長男、義孝からの年賀状が目に留まる。良三との再会を願う坂崎。「泊りがけで遊びに来て欲しい」と誘う義孝。その言葉を受けて良三は、久々の再会に胸弾ませながら、二人の暮らす旭川へと向かう。しかし、訪ねた先で直面したのは、温かい言葉とは正反対の冷たく不誠実な対応であった。そんな時、人はどう感じどう思うのであろうか。」
このお話で思わされることは、世間の常識である「本音と建前」があるということだ。年賀状は建前を書くのが多く、「日頃のご無沙汰をお許しください」とか、「近くにお越しの際はお立ちよりください」とか、本人が考えもしていないことを本音を隠して年賀状には書くのである。そこに悪気はない。
それに応じて、平川良三は坂崎のもとに会いに行き夕方には飲みに行く約束までするのである。ところが、坂崎の部下から夕方は臨時会議があるとのことで中止になる。しかし、それは坂崎の仕組んだ芝居であって平川はショックを受ける。情けなくなって平川は、長男の義孝の元へ向かう。義孝は風邪で寝込んでいて、父が訪ねて来ることを知らなかった。
良三は義孝の勤め先に息子を訪ねることを伝言するが伝えられていなかったのである。それにしても、息子の父親への対応はお粗末である。素っ気ない。やがて義孝の妻が美容院から帰って来るが、良三は嫁に冷遇される。孫も馴染んでいない。良三は、この家にとって邪魔者以外の何者でもなかった。嫁は父親に聞こえるように夫に良三が何時に帰るのか聞く、ここでも良三はショックを受ける。
良三は、息子が年賀状に書いていたように、泊まるつもりでやってきたのだ。しかし、良三は、食事もしないで駅に向かった。途中で行ったことのある店で食事をし酒を飲んだ。ここで、彼はやるせない思いを抱きながら時間を忘れて飲み過ぎてしまう。
汽車の最終列車に気づいて車で駅にかけつけた時、発車のベルがやましく鳴っていた。良三が改札口を出た時、汽車は発車してしまった。良三は、そこでふらふらとプラットホームにくずおれてしまう。終列車の赤い尾灯が小さく遠ざかっていった。良三の心を映し出すような特別な場面である。何か、目に浮かんでくるような終わり方である。
ある方が、この作品を読んで、「三浦さんは、人間を深くえぐり出して描いている。こうするしかない人間には、救いはないのでしょうか」と述べておられる。確かに、この短編小説には救いや解決はない。三浦さんはなぜこのようなお話を書いたのだろうと訝る方もおられるかもしれない。また、このお話は三浦綾子さんが、人間の本音と建前をテーマに書きながらもうちょっと人にやさしく接していきましょう、などと教訓を引き出そうとしているのでもない。
先に戻るが、三浦さんは、人間の原罪を作品によって読者に指し示しながら、そこからイエス・キリストの救いへ導いていこうとしておられるのである。「氷点」も「塩狩峠」、「道ありき」の体験談もそうであろう。この物語によって日本人の日常の卑近な例である「本音と建前」のお話の展開を見せながら、本当はそこにも人間の性としての罪の性質があることを示唆しているのではないかと思う。
ある人は、聖書のいう罪がわからないと言われるかもしれないが、このような事例であるならば、おわかりいただけるだろうか。本音と建前なんて単なる日本人論の一つだ、などと笑って済ませられない問題が内に潜んでいるのではないだろうか。そのことが、尊い人間関係を破壊し、一人の人間の生きる力さえ奪ってしまうのである。人生のどん底にも陥れることにもなるのである。そのような自己中心の勝手な自分から神によって赦していただき救っていただくことが必要ではないだろうか。
使徒パウロという人は、己の罪に気づき救い主のことがわかった時にこのように告白している。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(第一テモテ1:15)と。
