「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」(12節)という御言がある。マタイによる福音書の5章から山上の説教が主によって語られた。7章のここにきて今まで語られてきた御教えの要約がこの一句に凝縮されまとめられている。これを「黄金律(ゴールデンルール)」と呼んでいる。信者の生活の考え方や生き方のルールのうちで最も重要な黄金のような律法なのである。
しかし、それほど重要であるにも拘わらず、何か平易な教えのように感じないでもない。だが実際この律法の実行は簡単なものなのだろうか。当時の宗教家であった律法学者やプライドが高かったパリサイ派の人々はこれを容易く行うことができるものと考えていた。そして、それをもって己の義を立てようとしたのである。彼らの義は、マタイ6:1に戒められているように「人の前に見せる義」であった。偽善的義の業であったのだ。しかもそのような自分自身を棚にあげて、他の人々が同じことをするとそれを嫌い裁いていた。何という自己矛盾。
さて、この黄金律の言葉の最初に、「だから」とある。これは山上の説教の結論としての意味がある。とくに山上の説教である「わたしは律法(モーセによる法律)や預言者(教え)を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(5:17)との主の御言を受けて、「これが律法であり預言者である」と語られたのである。この「律法と預言者」とは、旧約聖書を指している。「これこそ聖書全体である」という意味である。
そして、黄金律の前に7節から11節の有名な教えを述べておられる。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見だし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(5:7,8)とあり、その後に「だから」と続くのである。この文脈で読み取ることは、神の国の人々は、神の国の民としての人生の在り方と生き方が教えられている。
すでに「愛の律法」をご存じであろう。「心をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」(ルカ10:27)とある。この愛の律法の実行としてこの黄金律が与えられていることを覚えたい。しかし、この平易な教えのように思われる教えを実行しようとする時、誰しもそれが難しいことを気づかされるのではないだろうか。これを単純に道徳の教えとして受けとめてやろうとすると如何に不可能な難しいことなのかを思い知らされる。もしかしたら簡単にできる内容もあるかもしれない。だが複雑な人間関係にある相手ならばそう容易いことではないだろう。
さて、ずいぶん以前のことであるが、三浦綾子氏の小説「塩狩峠」が、1973年、松竹映画/ワールドワイド映画の製作で完成した。これは日本のキリスト教界にとって歴史的、画期的出来事となった。映画のパンフレットに原作者のことばが記されていた。「観客のすすり泣く声の中に映画は終わった。私もまた、自分が原作者であることも忘れて、泣きながら見終えた。これほどに、監督、カメラマン、俳優、その他製作関係者一同の真実と熱情のこめられた映画があるだろうか。ここには、乗客全員を救わんとして、塩狩峠にその若き命を捧げたモデル長野政雄氏の真実と、関係者一人ひとりの真実が、見事に結合している。言い難い深い感動が、この映画にある所以であろう」と。
この映画は、原作者も絶賛するほどの作品となった。そして、多くの人々を感動させたのである。ぜひ皆さんもDVDで観ていただきたい。さてこの映画で人間の原罪について考えさせられる場面がある。主人公永野信夫(長野政雄)が、石狩川の畔で雪降る夜、路傍伝道をする伊木一馬牧師と出会う。それを機に永野は聖書を真剣に読み始めるのだが、自分の罪とキリストの十字架の関係がわからなかった。キリストが多くの罪人のために死なれたことはわかるが、自分のためであることはわからなかった。自分は義しい人間であると思っていたからである。すると伊木師は、「私自身もやったことだが、君は、聖書の一句でもいいから、それを徹底的に実行してみないか」と助言した。そんなある日、職場の鉄道事務所で給料盗難事件が起こった。犯人はすぐにわかりそれは同僚の三堀峰吉であった。ところが永野は三堀をかばい、上司に責任をもって三堀を更生させると誓う。永野は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ルカ10章27節の言葉を三堀のために実行しようと決心するのである。
しかし、彼に親身になって親切を尽くそうとするのだが、その気持ちが伝わらず、却って心は頑なになり反感を買って罵られるのである。「偽善者!!!・・・」と。その時、永野はこんなにも三堀のことを心配して隣人になろうとしているのに、なぜ三堀は自分に心を開いてくれないのか、と思うと同時に心にふつふつと三堀に対する憎しみと怒りがこみあげてきた。永野はひねくれ者を救いに導くことが如何に難しいことかを体験したのである。それとともにこのことによって、自分の罪が初めてわかった。三堀に対するその負の感情こそ神に対する罪であり、その自分の罪のためにキリストが十字架につき死んでくださったことを信じた。これが、永野信夫の信仰の原点となったのである。
実は、この黄金律は、私たち罪人にとってキリストの救いに連れていく養育掛(案内役)の役割を担っていることを思わされる(ガラテヤ3:23-26)。生まれながらの罪人である人間には、善を欲しながらそれを自力で行うことができない現実にぶち当たる。そのような場合、自分の無力さを感じるだけである。また信者であってもなかなかその実践者になるのは自分だけではできないものである。この黄金律を自らに適用する時、如何に自分が神の律法に違反しているのかがわかる。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にそのとおりにせよ」という教えはよいが、それを行おうとすると己の自我が邪魔をしてやれないのである。これは、信者の日々の信仰生活を継続する中での問題でもある。これは、自分自身が原罪の影響のある自我と真剣に取り組まないと安易にその解決を求めることはできない。確かにキリストによる救いは、主イエスを救い主として信じたその日から始まった。しかしながら、それで救いが完成した訳ではない。
「キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(ピリピ1:6)とあるように、私たちはやがて与えられる信仰の救いの達成を目指して走っていかなければならないのである。これは、私たちの人格と良心が主の血潮に聖められて、再臨の主をお待ちすることである。これからのクリスチャン人生において、主に祈り、主に助けられ、このゴールデンルールによって日々歩んでいこうではないか。
