| オープンチャーチの特別な日にご来会いただき心から歓迎します。 この機会に聖書からのメッセージをお伝えしたい。旧約聖書の詩篇は、150篇から成る創造主である神への讃美の詩である。この133篇は、讃美のかたちでありながら、直接的にはイスラエルの民を祝福する言葉であるが、今日はすべての人々に適用される幸いな言葉として知られている。当時、ユダヤ人は12部族で統合されていたが、家族として愛し合い一致するように祝福されている。男も女も、大人も子供も、富める者も貧しい者も、宗教的、政治的リーダーも一般民衆も、共になかよく生きるように祝福を命じておられるのである。それは、さらに普遍的な意味があって、世界に向かって発信されている神からの祝福のメッセージでもある。国と国、民族と民族、肌の色や言語や文化の違いを越えて、異なる者たちが受け入れ合い心を合わせて楽しい交わりができるような人間関係を神は願っておられるのである。 それは、一人ひとりのいのちを祝福しておられることでもある。いのちとは、その人の存在そのものである。beingである。今日ほど世界レベルでこの幸せを求めている時代は他にないのではないかと思う。すべての人々がいのちの祝福と幸せを求めているのである。しかしながら、今回はあまりにその領域を広げ過ぎると的をしぼれなくなるので家族関係に限定して、「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」(1節)を読んでみたい。「仲良きことは美しき哉」とは、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ・小説家・詩人)の名言であるが、それは家族ならばなおさらのことであろう。 さて、NHKの朝ドラの「ブギウギ」の主役であるSさん演じる花田鈴子(笠置シズ子)の子ども時代を演じるR.Sちゃんが、現在人気を集めている(子ども時代は先週で終わり)。かわいらしくて歌と演技がうまいと皆が評している。700人のオーデションの中で才能を見抜いたチーフ演出家が彼女を抜擢したのだが、見事に朝ドラのつかみの大事な部分を担当した中学一年生は視聴者の心を捉えたのである。このRちゃんの家族が熱くて微笑ましい。お父さんが、娘の花田鈴子の子ども時代の役に起用されることが決まった時、帰宅して号泣してなかなか収まらなかったようだ。それほど父親として娘の大役の決定がうれしくて、今後の活躍の可能性が芽生えたことを喜び期待して気持ちを抑えることができなかったのであろう。このお父さんのように、どこの家の親も子の幸せと成功を願い祈るように日々過ごしているのだと思う。あなたも同じではないだろうか。 さて、今日お見えの方々にはそういう人はおられないと思うが、一般論として聞いていただきたいことは、現代は日本の家族に愛が欠けているのではないかと思わされることが多くなっている。日本の家族が危ういと思われる事件が頻発していることはとても残念である。子どもを育てられない親がいる。ネグレクト問題。子どもは愛されるためにこの世に生まれてきたのに、愛されないで心傷つき愛することを知らないまま大人になってしまった人たち。そのような人々は、どうやって人を愛していけばよいのだろうか。また大人になりきれていない男が結婚して妻や子に暴力を振るう地獄のような家庭もある。母親が子を虐待して殺害した事件もある。また仕事人間のお父さんが家族を省みないで起こる母子心中事件。家族とのコミュニケーションが欠けて愛が欠如するとあらゆる犯罪や心の病が誘発されることも知られている。 さらには、親が老いていく中でかつて多大な世話になり育ててもらいながら、身体だけ大人になった子どもたちが親を捨てる場合もある。全く親に対する子の心を失いお金はとりあげす出すが老人施設に親を入れっばなしにする。姨捨山のようだ。さらには、親の方が自分の葬式費用の心配をする情けない場合もある。現代は、確かにいろいろな意味でお互い生きるのが困難になってきているが、日本は第三世界に比較するならば物質的にはあふれていることは周知のところである。 今こそ物ではなく心。真実に親が子を愛し、子が親を愛する。夫が妻を愛する。そういう家庭を家族を回復させる必要があるのではないだろうか。詩篇133篇にあるような、いのちの祝福に与るためには、四つのことが重要ではないかと思っている。 ①人間の愛の限界を知ること。人間の愛は素晴らしく尊いが弱く欠けがある。それだけでは本当の幸せのために間に合わない。ギリシャ語では、愛を使いわけている。互いの性を求めあうエロースの愛。血肉を分けた肉親の愛のストルゲー。そして、いつまでも変わらないように見える友情のフィリア。しかし、それらは、相手によって条件をつけたり、理由づけで愛したり愛しなかったりするのではないか。変わりやすく長続きしない限界がいつも伴っていると思う。 ②神の愛(アガペー)を知ること。十字架の犠牲の愛。しかし、神の愛は違う。神の愛は、差別しない。自分勝手ではない。変わらない。傷を残さない。当てになる。真実を貫く。誰にでも納得できる愛である。そして、その愛は深いところで「にもかかわらずの愛」である。私たちが、いたらないにもかかわらず、罪深い者であるにもかかわらず、過去においてどんな失敗や躓きの人生を歩んでいたにもかかわらず、その罪の重荷と裁きを全部、神(イエス・キリスト)の方が引き受けて愛し赦してくださるのである。それが十字架で示された。「彼らを赦してください」と。 ③いのちの祝福の出発は、神に対する「ごめんなさい」から。悔い改めと祈り。どんなに立派な人であったとしても、神から愛され赦されないでいい人はいない。「すべての人は罪を犯し、神の栄光をあらわすことができない」と聖書にあるとおりである。ですから、すべての人たちが神の前に遜って自分の真の姿に気づき、それを神にお詫びすることが肝要である。そして、神の助けによって生き方を180度転換して変えることを決心することだ。 ④家族同士が向き合い「ごめんなさい」と言う。神と仲直りをした人は、今度は他者との関係を回復しなければならない。勇気をもって神の助けによって相手に失敗と誤りと罪をお詫びすること。それは一時的には、恥ずかしくて情けないことかもしれないが、新しい歩みのためにそのプロセスを経ていくのである。そして、私たちは神と他者に対する和解をしていのちの祝福に与ることができるのである。ハレルヤ!! 「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」、「見よ、親子が和合して共におることは、いかに麗しく楽しいことであろう」、「見よ、夫婦が和合して共におることは、いかに麗しく楽しいことであろう」。そのような交わりこそ神が私たちに与えてくださる「いのちの祝福」なのである。 |
題「いのちの祝福」詩篇133篇
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