| この一年も今日をもって詰めくくられる。過ぎた月日を振り返り神の恵みと祝福を数えて心からなる感謝を神にささげようではないか。まさに「ハレルヤ!」である。 物事には、すべて初めがあるものには、終わりがある。一日にも、一週にも、一月にも、一年にも初めがあれば、終わりがある。仕事も学校にも終わりがある。春・夏・冬の休みにも終わりはある。長年連れ添った仲の良い夫婦にも終わりが来る。そして、今このように生きている私たちもお互いの生命が終わる時が必ず来る。例外はない。 さて、2023年の終わりのこの日に、世の終わりの預言書であるヨハネの黙示録の最後の章を学んでおきたい。 22章6節から21節は、本書の結論が記されている。6節から11節は、御使の告示である。「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにでも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである」(6節)。「この預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである」(10節)とある。 12節から20節は、キリストの約束と警告。再臨の主イエス・キリストの報いと贖われていない者の行くべき場所と、預言の言葉に書き加える者と取り除く者に対する裁きが記されている。先日も大阪にある韓国系の「新天地」の信者からyoutubeに自分たちの教えが紹介されているので見て欲しいとの勧誘があったが、この団体は韓国でも日本でもよく知られているキリスト教異端である。異端は明確に示されている真理を歪曲したり、はっきりしないことに自分勝手な解釈を施し自らを正当化しようとする特徴があるが、まさにここに記されてあるとおりだ。 13節に注目したい。「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である」(すべてのものの先にある者であり、すべてのものの終わりである者の意)。この主イエスの自己紹介は、旧約聖書イザヤ書41:4,43:10,44:6, ,48:12に4回繰り返されている。これらは、ご自身がどのようなお方であるのかを証するものである。 ヨハネは、「最初の者」であるイエス・キリストについて、 ヨハネ1章3節で「すべてのものは、これによってできた。できたもののうちで、一つとしてこれによらないものはなかった」と証している。キリストこそすべて造られたものの根源者、すべてのものの存在理由なのである。そのお方がこれから何が起こるのか予め語られたのである。確かに黙示録の解釈は難解であるが、これから起こるであろう終末の時代のための備えとして、そのことを素直に信じていくところに本当の信仰姿勢があると思う。特に重要なポイントを四つあげておきたいと思う。 1.「見よ、わたしはすぐに来る」(7,12,20節) これは、再臨のことを意味している。「すぐに来る」とは、言語の意味として「来たりつつある」ということである(他に〖盗人のように来る〗3:3,16:15)。繰り返されているということは、どうでもよいことをこのようなかたちで書き記すことはない。重要なメッセージであることを示している。ぜひともあなたにも信仰をもって受けとめていただきたい。 2,「報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いる」(12節) これは、最後の審判の裁きのことではなく、「見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは、そのみ前にあり、その働きの報いは、そのみ前にある」(イザヤ40:10)。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道に従い、その行いの実によって報いをするためである」(エレミヤ17:10)とあるように、その人の人生行動により、神の報酬が与えられることを意味する。私たちは、地上の人生においてどのような主の報いを受けることができであろうか。それともあまりにも地上に宝を積み過ぎてしまい天での報いが少ないのであろうか。 3.「わたしはアルパであり、オメガである」(13節) これは、キリストが完全 であり、永遠であり、権威あることを示している。それゆえに「いのちの木(永遠のいのち)にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都(天のエルサレム)にはいるために、自分の着物(品性の意)を洗う者たちは、さいわいである」(14節)。人の品性を洗うものは何か。それは、キリストの十字架上で流された御宝血である。「その衣を小羊の血で洗い、それを白くした」(黙示録7:14)。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(第1ヨハネ1:7)とある。主の御血潮によって清められ贖われ永遠の都に入るのである。それも信じることによるのだ。これは地上にあって生きている間のことである。死んでしまっては遅すぎるのだ。生きている間がお互いの死後の世界がどうなるのかの勝負である。 4.「警告」(18,19節) 「この書の預言の言葉」を、この書に限定する限定するものでない。この黙示録には、旧約聖書の預言の言葉が驚くほど数多く引用されている。聖書は、すべて歴史的、霊的、預言的であり三大意義がある。したがって、この預言の言葉とは、聖書全巻を差している。私たちは、旧約聖書と新約聖書のすべてをそのままの真理の言葉として信じる者の幸いを教えられるのだ。主が聖書著者に霊感を与えて記録させた尊い神の言葉に、決して水増しすることなく、割引することなく、66巻をそのまま受けとめ信じる者は、救われ神のいのちの道に進むことができるのである。 17世紀のイングランドの牧師、文学者ジョン・バンヤンの言葉がある。 「この本は、あなたを罪から守る。そうでなければ、罪があなたをこの本から隔てる」と。聖書をどう読むのかが教えられる。 皆さん、この年の終わりにもう一度それぞれの信仰生活と教会生活を反省し悔い改め、また感謝し評価し、新しい年の歩みのために心を備えようではないか。そして、完全であり、永遠であり、権威あるお方を大胆に告白して、お互いにとって本当の終わりの時のために整えられたいと思う。 「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明できるようにしていなさい」(第1ペテロ3:15)。 |
題「初めであり、終わりである者」黙示録22:13-14
目次
