| 今日「時を知る」ということは、今晩の夕食何にしようか、という問題より重要であると思っている。現在の世界情勢を見ると一つの特徴を見ることができる。それは世界と日本に左翼化の傾向があるように思われる。その根底にあるのが、ポストモダン的「社会主義」論があるといわれている。世界には長年米国の帝国主義を代表とする権力構造があり、強者が自分に都合のよいように社会をつくってきたとし、権力を持たない国、民族は貧しく不平等であり不幸であるとする。今こそ弱者が連帯して権力者を打倒する。現在の社会秩序を破壊して、全く異なった理想社会を建設することを目的とする思想のことである。かつての共産主義を理想とする考え方からイスラム教に加担するかたちによる理想社会を目指そうとしていると考えられる。価値観のグローバル化である。 実際に日本の国立大学のイスラム中東研究者が、「イスラムと民主主義は、矛盾せず」という新聞記事を書いたことがあった。イスラム教の神の前における人間の平等という思想と民主主義は決して相反するものではないと言うのである。それだけを聞くとイスラム教はいいものなのだ、と思ってしまう。しかし、これには大きな嘘がある。民主主義は国民が主権者であるが、イスラム教においては、アラーの神が主権者である。イスラム教の信者は、コーランに記されているアラーの神の命じるとおりに行わなければならない。 多くの日本人が知らないことの一つとして、イスラム教のコーランには、全世界のイスラム化を命じており世界統一がその目的であることだ。そのためには、ジハード(武力・軍事的手段によるもの)による勢力拡大を是としている。すでに過去の歴史においてもそのように実行してきた。そういう恐ろしい存在であるものを現在の高校の教科書である「詳説世界史」には、イスラム教は平和の宗教であるとはばかることなく学生を教えている。先の中東研究者も同じことを語っているのだ。日本の知識人の良識を疑う。 この物事を見る大きな視点の違いが理解できたら、今も続いているイスラム過激テロ組織「ハマス」とイスラエルの戦争において、なぜイスラエルがヘイト(憎悪をむき出しにした発言)されているのかがわかる。このような時勢を見抜くことは今を生きる私たちにとってとても重要であると思う。実は、驚かれるかもしれないが、今起こっている出来事は新約聖書のヨハネの黙示録に記されている終末時代の預言の兆しに酷似している。その意味において、私たちは注視しておいた方がよい。 さて、今日の聖書箇所である11節の「時を知っている」とは、どういう時なのであろうか。これは終末の時のことである。ギリシャ語で時を表わすのに、「何月何日何時何分の時」と「特別で大事な時」と使い分けている。ここでの時とは後者であり「今の時がどんな(危機的な)時であるか、今はまさにあなたがたが眠りから目をさますべき(現実に対して目覚めるべき)時だということを、あなたがたは知っています。すなわち今は、救い(終末的救済)が、最初私たちが信じた(キリスト<メシヤ>に心服した、信頼した、より頼んだ)ころよりもさらに私たちに近づいているのです」(詳訳聖書)と著者である使徒パウロは語っている。このような時を知っているのだから、「特に、この事を励まねばならない」のである。 私たちは、このような時を知っているのだろうか。例をあげるならば、今は夜であるが、もう少しで夜明けが近づいていて、やがて朝日が輝くことを知っているならば、ここで言うところの時を知っていることになる。そして、私たちにとっての終末の時というのは、単なる世の終わりでも地球滅亡の時でもない。つまり人間にとっての絶望の日の到来を意味していないのだ。 1980年に小松左京の「復活の日」というSF小説が映画化され全国上映された。お話の内容は、猛毒の新型ウイルスにより人類のほとんどが全滅してしまう。さらに巨大地震、核爆発により状況は悪化の一途。しかし、生き残った少数の人々により人間の知恵と努力で文明の復興を目指す。希望仕立てで物語の幕は下りる。現代人お得意のヒューマニズムのフィクションである。しかし、聖書が示すものは、この程度の終末の時の希望ではない。 人気脚本作家の遊川和彦氏があるドラマの中で、主人公に言わせている一言葉がある。「もう人間は終わっている。もう人間は救いようがない。こんな人間なんてこの世界からなくなってしまえばいいんだ」というようなことを叫んでいた。実際、もはや人間の知恵や力でもどうすることもできない時代が来ているのではないか。国連も存在意義を全く失っている。機能的に国連があってもないようなものだ。おまけに国連がハマスに間接的に協力していることもわかっている。なんと情けない時代なのかと思わされる。 しかし、そのような現実があるのだが、私たちは絶望することはない。聖書の神は人類の救いのご計画を大きく二つに分けて実行される。一つはもう歴史になっている。救い主イエス・キリストの初臨(クリスマス)と十字架の死と復活による一回目の夜明けである。クリスマスの夜、救い主を待ち望んでいた人々にとって世界で最初のクリスマスの事実を天の御使たちによって知らされた時の喜びはいかばかりであったことだろうか。そして、33年半後の罪なきお方の身代わりの死、全人類の罪を贖い救い出す犠牲の愛。三本の十字架の一つにさらし者になっていた犯罪人の一人が死の一歩手前で救い主を信じ救われた。そして、絶望でしかないキリストの墓は復活の勝利の場所と変えられ神の栄光が顕された。「神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とある。 それ以来、イエス・キリストの昇天と約束の聖霊降臨を経て、イエス・キリストの福音宣教は、エルサレムから始まり世界に広げられていったのである。そして、教会時代は現在を迎えている。さらに、いよいよ二度目の救いの計画が実行されようとしている。それはキリストの再臨による救いと最後の審判である。世界はもはや人間の知恵や力でどうすることもできない。それだから、神がついにご介入されるのである。人類歴史における神の正義がこの世に貫徹されるのである。すべてのことに、誰もが納得できる決着が着く。白黒が明確にされるのである。その神のご判断に対して人間の努力や駆け引きなどは皆無である。神が決められ実行されるので、それはすべて正しいのである。さらには、人類の敵、悪魔も悪霊も全く滅ぼされてしまう。そして、キリストの千年王国を経て、新天新地(神の国)が確立するのである。 私たちは、そこに繋げるために、今こそ「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特にこの事を励まなければならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(11-14節)とある御言葉を信じようではないか。 ①やみのわざを捨てること。これは、生まれながらの古い人の生き方である。そこから離れて新たに生き方を変えて歩 むことである。 ②光の武具をつけること。具体的には、主イエス・キリストを着ることである。「私は世の光である」と言われる救い 主を人生の主として信じて、イエス・キリストと共に厳しい時代を生き抜くことである。 ③つつましく歩くこと。やみの子としての生き方ではなく、悔い改めて昼の子として品位ある生き方を示している。 アウグスチヌスが、優れた神学者となって世界のキリスト教会に貢献したことはよく知られているところである。しかし、最初からそのような人であったのではない。彼は、30歳になるまで愛人と同棲し、情欲に魂を奪われた生活をしていた。しかし、アンブロシウスという人物の説教を聴いて、心刺されて、自分の二重生活に苦しみ、何とか悪の根を断ち切ろうとした。けれども、罪の生活に慣れた彼には、容易に実行できず、優柔不断の生活を繰り返していた。しかし、そのような苦悩の日々にあったある日、子どもたちの歌声を耳にした。それは、「取りて読め。取りて読め」と言葉の歌であった。彼は、その子どもたちの歌声に導かれて、聖書を取って読んだ。それが、今回のこの箇所なのである。この聖句を読んで、全く心の目が覚めた。そして、それまでの人生を悔い改めた。そして、弱い自分の意志も、悔い改めてキリストに委ねた。すると、長い間縛られていた罪から離れる力が神によって与えられてキリストの救いを心底から体験することができたのである。このように、アウグスチヌスも「時を知る」者として、人生の方向転換を経て新しく生きるようになったのである。 新年に当たり、あなたも「時を知る」者として、心を新たにして人生を歩んでいこうではないか。 主の助けが豊かにありますように。 |
題「時を知る」ローマ13:11-14
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