新年の三週目の主日礼拝に神の器(クリスチャン)として整えられたい。初代教会時代、使徒パウロはAD61年、信仰のゆえにローマで投獄されていた。AD63年にいったん放免されるが、AD68年再び捕らえられローマ市外で斬首刑された。この書簡は、パウロの殉教前のテモテに対する遺言的最後の手紙となった。
内容は、キリスト教会を脅かす異端に警戒し福音の真理に堅く立って伝道者の業を全うすることを勧めている。では今日これは限定された伝道者だけに語られているものであろうか。決してそうではない。パウロは、現代に生きるすべてのクリスチャンにも「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」(4:7)と告白してほしいと願っているに違いない。私たちは想像力を働かせ緊張感をもってこういう箇所を読まなければならないと思う。
さて、パウロはちょっと気弱で消極的な愛弟子テモテに1章6節から2章26節までにおいて注意と励ましを与えている。
①「キリストの立派な兵卒となること(1-13節)。
②「真理をまっすぐに解き明かすこと」(14-18節)。
③「主人に役立つ者となること」(19-26節)。
今回は特に20節から21節を中心に学びたい。よく教会にとって重要なことは、doingではなくbeingであると言われる。教会の肢体、器官であるクリスチャンの行為ではなく存在が尊いと評価されるのである。
ここでパウロは、主人(主イエス)に役立つものとなるために「きよめられた器」となり「すべての良いわざに間に合うようになる」と教えている。「すべての良いわざ」は、「きよめられた器」から生まれる。クリスチャンの存在が整えられるところに良き奉仕のわざがなされるというのである。確かにどんな大きな家にも、あらゆる種類の容器や器具がある。高価な金物や価値の低い金物もあろう。また名誉あることに使われる器があり、そうではない器もある。教会内も同じである。
教会(共同体)においてもいろいろな器が混在しているといえよう。性別、年齢、職業、才能、能力、性質など。それぞれが違っていて当然である。人間の生まれながらの個性や身につけてきたものがたとい一つひとつが異なっていたとしても、それらはその人の人間としての優劣を競ったり、尊さや値打ちを秤にかけて測るものではない。それぞれの器はその用途に応じて用いられるものである。それでよいのだ。しかしながら、それぞれの器なりに適材適所で主に用いられていくための一つ重要な点がある。それはすべての信者に適用されるものである。
どうやらパウロは、テモテのことを黄金の器でも水晶やダイヤモンドを散りばめたような器としては見ていなかったようである。だがどんな器も主に用いられる秘訣があることを信じて疑っていなかったのだ。
そこで彼は若き主の僕に語りかけるのである。「テモテよ。どんなに貧しい乏しい器であっても、主に役立ち用いられるようになる秘密があるぞ。それは、卑しいもの(①<これらのことから>。16節-18節。信仰的、教理的聖潔を意味している。②22節。情欲を避けること。23-26節。愚かで無知な議論。生活上の聖潔。)を取り去って(離れて。新改訳、共同訳)自分をきよめるなら、尊いきよめられた器となり、主に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになるのだ」と語ったのである。
「卑しいものを取り去って、自分をきよめるなら」とは、自分自身にきよめる力があるということではない。きよめてくださるのは主イエスである。それゆえに、私たちが主の御前で祈りのうちに示された罪を一つひとつ悔い改めて、心と意志を主に明け渡してきよめていただくのである。これは信仰によるのである。
「御子イエスの血がすべての罪からきよめる(継続的に)のである」(第1ヨハネ1:7)とあるように、キリストの十字架を仰ぎ、御宝血により洗いきよめていただき、心を新たにして「尊いきよめられた器」にしていただくことである。そうすれば、神ご自身に役立つ者と変えられ、「きよさは、力なり」と言われいるように、神の栄光を現わす器となるのだ。 さて、今年になって3人の教会関係者が突然天に召された。それぞれが神の器として地上の信仰を全うされて天に凱旋されたのではないかと思っている。お一人ひとり、個性もあり賜物もあり、欠点も弱点もあったかもしれないが、実に神の器として神によりきよめられて精一杯人生を生き抜かれたのではないだろうか。
さあ、私たちも、たとい貧しく乏しい器でも、大きな問題ではない。またどんなに汚れた罪人でも、未熟なクリスチャンであったとしても、それが大きな妨げになることはない。整えられるため成すべき行程を経るならば、私たちも神の器として用いられることができるようになるのである。さあ、神の御わざに用いられる神の器とさせていただこうではないか。
