| 主なる神は、しばしば崇高な真理を指し示すためにわかり易い比喩を用いられることがある。このエレミヤ18章には、神とイスラエル、神と人間の関係を、陶器師と粘土とつくられる器の関係に譬えている。神はご自身が絶対的な主権を持っていることを示しておられるのである。 これはイザヤが預言した言葉にもみられる。「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです」(64:8)。「陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、『彼はわたしを造らなかった』と言い、形造った者について、『彼は知恵がない』と言うことができようか」(29:16)とある。 ここで、エレミヤは「陶器師の家に下れ」(2節)と主に促されて陶器師の家に出かけていった。彼はろくろで陶器師が手の中でつくる器を見ていた。彼はそれを仕損じたならば、自分の意のままに別の器をつくった。その仕事の様子を見ていたエレミヤに神の言葉があったのだ。「イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある」と。 このところを読みながら、創世記2章7節の主なる神が人をお造りになられた様子を思い出した。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」とある。また伝道の書12章7節には、「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」とある。 これらの言葉から人間が土くれから造られた器であることは明白である。しかし、土くれから最高の神の作品として創造されていながら、アダムとエバは神との契約(約束)を破り罪人となり仕損じた器となってしまった。これが人類の不幸の元凶である。 しかし、私たちがそのことを認め、自分が土くれであることを認め、陶器師である神の御手に立ち返り委ねるならば、神はもう一度私たちを意のままに新しい器に造り変えてくださるのである。イスラエルも私たちも本来いるべきところは神の御手の中である。陶器師が粘土を持って器をつくるように、神の御手の中に戻ることである。生殺与奪は全く神にある。イスラエルの民がどこまでも強情で神に従わなければ懲らしめ滅ぼされる。一方悔い改めるならば救いと回復を与えられるのである(7-10節)。 詩篇51篇は、タビデの悔い改めの祈りである(出来事の記録、サムエル下11章、12章)。ダビデは、忠実な兵士ウリヤの妻バテシバに情欲を燃やし姦淫の罪を犯した。罪の発覚を恐れてウリヤを間接的に殺害してしまった。彼はその恐ろしい罪を隠し通せると思っていた。しかし、神の預言者ナタンから、その罪の重大さを指摘され死を突きつけられた。直後ダビデは心砕かれて、「私は主に罪をおかしました」(サムエル下12:13)と、神の前にひれ伏した。そして、神に祈ったのである。「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません」(詩篇51:1-4)と。この祈りは、ダビデが権力者である王であることも、人目をはばかることも忘れ、ただただ一個の罪人として泣きくずれたことを意味している。過去においてあれほどの信仰者でありながらタビデも罪を犯してしまった。人間はなんと弱い存在であろうか。 勿論、罪を犯すことは決してよいことではない。そして、ダビデだけが悪いのではない。私たちも「常に罪を犯す可能性がある」。「罪を犯す可能性がなくなる」のではない。重要なことは、罪を犯してしまった時、どうするのかということである。ある人はどうせ人間というものは罪を犯す者なのだから諦めようと言うのかもしれない。ある人はそのような弱い自分に対して自責の念にとらわれて、精神的に病んでしまうかもしれない。諦めるのも責め続けるのも決してその人の救いにはならない。 最も悪いことは「神のところに帰らないこと」である。そのままやり過ごすことである。 ダビデはそうではなかったのだ。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(4節)とあるように、神の前に如何に罪深く、弱い者であるのかを知り、自分でどうすることもできない罪を悔いて、神の憐れみと救いを求めたのである。それが、神に受け入れられ彼の赦されざる罪がキリストの十字架のゆえに赦されきよめられたのである。 ダビデはその時、新しい器として整えられた。そして、引き続きイスラエルの選ばれた王としてその職責を全うすることが許されたのである。実にダビデは模範である。私たちにとって神は陶器師である。私たちは陶器師の手の中ある粘土、土くれである。世界最高の芸術家であられる神の思いのままに新しく造り変えていただこうではないか。 |
題「新しい器」エレミヤ18:1-4
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