| 徳島県鴨島町にあるキリスト教主義のめぐみ幼稚園を卒園してから、隣接していた鴨島兄弟教会の教会学校の生徒になった。その頃は、隣町に引っ越していたので日曜日は早く起きバスに乗って熱心に通っていた。時には、父親に片道をスクーターに乗せてもらって参加したこともあった。それが約6年間続いたのだ。その教会学校のクリスマスプレゼントに聖書カルタをいただいたことがあった。とてもうれしかったことをよく覚えている。その中でも「つ」のふだで、イスカリオテのユダについての絵と文字を忘れることができない。「冷たい接吻、ユダの裏切り」。子ども心にも衝撃的な内容を印象的に受け取っていたのだと思う。 さて、先週はゲツセマネの祈りについて学んだ。主イエスにとって本当の十字架はあの祈りの闘いであったことを強調した。主は「我が心定まれり」と、毅然として立ち上がり十字架を負うために進んでいかれた。すると最後の晩餐の席を立って敵との打ち合わせに向かったイスカリオテのユダが、主を裏切るために先頭に立って群衆と一緒に現れた。彼はイエスを銀貨30枚で売り渡していたのだ。そして、親愛の情を表現する挨拶の接吻をもってナザレのイエスを特定する手段とした。そして、イエスは敵に捕縛されてしまうのである。主は、「今はあなたがたの時、またやみの支配の時である」(53節)と語られている。 一連のこの出来事を思いめぐらすならば、主に背くのは、「強盗に向かうように」あからさまに逆らう場合と、熱烈な愛を装い背く場合があることを見る。主が捕縛された時間はおそらく夜の午前3時半から朝がたの4時頃であったのであろう。これから世界一長い時間が経過するのである。この時に至り裏切者のイスカリオテのユダの心情は、実際どうであったのだろうか。想像することしかできない。 このユダの裏切りについては、諸説ある。 ①貪欲説。会計係として横領の穴埋め金欲しさか(ヨハネ12:3-6)。ベタニヤのマリヤが、高価で純粋なナルドの香油一斤(300g)を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、ユダが、「なぜこの香油を三百デナリ(当時の労働賃金の10ケ月分)で売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」とマリヤを批判した。「彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった」とある。これならば、後になり後悔してなぜ自死を遂げたのか説明することが難しい。受け取っ た銀貨30枚で穴埋めをして後は、口を拭ってしまえばよいはずである。 ②信仰喪失説。イエスの末路を見越した寝返り説か(マルコ14:61-64)。大祭司の尋問で、彼はイエスに「おまえはキリストか」と問うと、主は、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と答えた。これに対して、大祭司は衣を裂き、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」とサンヘドリンの議員全体に迫った。「彼らは皆、イエスを死に当たるものと断定した」とある。この状況の変化により寝返ったというのであるが、それならばここには偽証を立てる者たちもいたのだから、ユダが裁判証人として出ていき反論することもできたはずである。なぜそうしなかったのか説明不能である。後で後悔したことも納得がいかない。 ③奮起される刺激説。主を追い詰めることによって奇蹟を期待したのか。ユダは政治的な野心があって弟子となったようである。今こそ新たにかつてのタビデ王国を再興するメシヤとしてイエスに期待し入門したのである。それなのにいつまで経っても何も行動しないイエスに業を煮やし、危機に追いやることによって何か起こすのではないかと考えたのであろうか。だが隠れて公金横領をする算段に長けた男が、どうなるかわからない賭けのようなことをするだろうか。 ④悪魔が入った(ルカ22:3)。ルカ4章に、主が公生涯の最初、悪魔から試誘を受けられた記事がある。主はみ言葉によって悪魔に勝利された。13節には、「悪魔はあらゆる試みをつくして、一時イエスを離れた」とある。それ以来の悪魔の再攻勢がユダの心に影響を与え支配し裏切らせることであったのではないかと見る。これが正解の神秘的な理由であろうか。 ヨハネは、13:2,27のところで、悪魔はユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れた、とある。またサタンが入った、と二段構えにしている。人間の小さな油断から悪魔の影響を受け、さらに悪魔を受け入れてしまうのである。これは私たち人間が、悪魔に影響される経過を示すものでもあると思う。 サタンは、一気に人に対して影響をもたらすのではなく、徐々に人の思いの中に働きかけてくる。そして、もしそれに対して無防備であるならば、悪魔は、「おまえは俺のものだ」と、ほくそ笑むのである。これは恐ろしいことである。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(第1コリント10:12)。 とあるとおりだ。 人は、サタンを受け入れるのか、キリストを受け入れるのか、心の内側の扉のノブに対して責任を負わなければならないことを教えられる。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にするであろう」(黙示録3:20)。 この扉は心の扉を意味している。主は私たちの心の扉をノックされる。それに応じるならば、主は私たちの心にお住みになられる。そして、主と共に生きる豊かな交わりに入るのである。それは、主からの強制ではなく、私たちの意志によるものであり、私たちの信仰であり決断である。それと同じように、悪魔が私たちに誘惑を与える時、外側から心の扉のノックを叩いてくる。それに対して無防備にしていると、いつの間にか心を悪魔に開き、委ね、受け入れてしまうのである。ここに警告のメッセージがある。 悪魔の時、やみの支配の時は、なお続く。人々はイエスを捕らえ、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った(54節)。その後に、「ペテロは遠くからついて行った」とある。なぜ彼はイエスとの関係を否定しながらなおついて行ったのであろうか。そのままそこからいなくなっても不思議ではない。しかし。ペテロは主から離れなかったのである。 それは、31-32節のペテロを代表とする弟子たちのための主の祈りの成就のためであったのだ。 「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主は、「サタンが、あなたがたをふるいにかける」と言われた。かつてサタンがヨブを試みるのに神の許可を求めたように、ここでも「願って許された」(31節b)のである。悪魔は全能者の許可なく人に何もすることはできない。神は意図するところがあってそれを認められるのである。このようにある意味で、人が悪魔にふるいにかけられることは、やむを得ないことであろう。ある教父は、「試みられぬ人は、誰も天国を得ることができない」と言っている。 ついに、ペテロは主の否認によって悪魔の手に落ちる。しかし、それで終わらないのである。確かにペテロは、主を否んだことによってイエスの預言は成就した。だが主イエスの祈りは、その向こうを見つめておられたのだ。 「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)とある。 ペテロは鶏が鳴く前に三度主を否認した後、「主は振りむいてペテロを見つめられた」(61節)ことによって悔い改めに導かれる。この「まなざし」は、創世記16:13の「エル・ロイの神のまなざし」である。絶対絶命の異教徒であったはずのエジプト女ハガルを、神は「ごらんになられて」憐れまれたのである。神は、実にこのような見られる神なのである。 そして、主の祈りは確実に成就するのだ。やがて、ペテロは立ち直り、復活とペンテコステの恵みを受けて初代教会のリーダーとして神と教会に仕えていくようになったのである。 私たちも悪魔のふるいにかけられることがある。だが立ち直る道が用意されている。「主が振りむいて見つめて」くださるからである。主の目は、時として厳しい裁きの目であるが、ここで主が示された御目は、憐れみと救いの目なのである。これさえあれば、私たちももう一度やり直せるのだ。エル・ロイの神を心から誉め称えようではないか。ハレルヤ!!! |
題「イエスの捕縛」ルカ22:54-62
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