| 今週も、四旬節・受難節の礼拝において御言を学ぼう。先週は、イスカリテのユダの裏切りにより敵に捕縛されたイエスについて見てきた。主イエスは、その後どうなったのであろうか。 主はユダヤの権力者の前に引き出され不条理極まりない裁判を受けられたのである。 裁判とは、裁判所で、裁判官が罪を犯した人に、どんな罰を与えるかを決める仕組みのことである。裁判には、裁判官、検察官、弁護人や、起訴された犯人と疑われている被告人が出る。そして、検察官が、被告人がどんな罪を犯したのか裁判官に告げ、その証拠を示し量刑についても意見を述べる。一方、弁護人は、被告人のために、その言い分を裁判官に述べ量刑の軽罰を主張する。そこで、裁判官は検察官と被告人・弁護人の言い分を聞き、判決をする。罪を犯した人は、法による罰を受けなければならないのである。近代の法治国家においては、大体このようなところであろう。 しかし、主イエスが受けた裁判は、そのようなものではなかった。彼はユダヤの最高議会(サンヘドリン)において尋問されるのであるが、大祭司カヤパをはじめ権力者は、主の死刑を確定しているものとして形式的に自分たちの裁判をしただけであった。それゆえに、それに見合う理由を見つけるための尋問なのである。偽りの偽証を集め、偽証によってイエスを失脚させようとしたのだ。全く不当なものであった。有罪ありきの裁判ほど恐ろしいものはない。 証拠があがらないまま、最後に二人の者が出てきて、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる」と言った(61節)とある(実際は、主はやがての十字架の死と復活を預言しておられたのだ)。これは、エルサレムの大事な神殿のことを言っているのであるが、実際にそれを壊してから造れなかったことを立証しなければ偽証にはならない主張である。ただの大言壮語したというだけで死刑の罪に相当するものではない。そんなわかりきったことでも、何としても理由づけをして死刑にしたかったのである。 しかし、この状況に至っても主は一言も反論することなく黙しておられた。思いあまってカヤパは、感情的になって、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」と迫った。その時、大勢いた議員たちの目が一斉に、イエスに注がれた。息詰まる一瞬。そこで、イエスは口を開いて言われた。「あなたの言うとおりである」(64節)と。このお方こそ神の子であった。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)とある。ついに、主はここで命かけてご自身が、メシヤ、キリスト、救い主であることを宣言されたのである。 そして、続いて主は不思議なことを言われた。「間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と。これは、終末時代、キリストの最後の審判の前にある再臨(セカンド・カミング)のことである。 それを聞いた大祭司たちは、憎しみと恐れと反感をむき出しにして睨みつけた。大祭司は衣を引き裂いて言った。「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」(65,66節)と。すると、彼らは答えて言った。「彼は死に当たるものだ」と。 全員一致。イエスが神と同一としたところに死に値する罪であることを決めつけ彼を殺すことにしたのである。 当時の宗教家たちは、聖書のプロでありながら、イエスを神の子キリストとして認めることができなかった。それは、彼らがバビロン捕囚を経て、聖書の精神と信仰から離れたからである(タルムード・ミシュナー。律法の解釈書・解説・註解書を重んじた)。旧約聖書には、ピンポイントでイエス・キリストが救い主であることを350ほどの預言の言葉によって指し示している。素直に真実に読んでいくならば、メシヤの信仰に至るはずであった。しかし、彼らははっきりとした道しるべを信じようとはしなかったのである。 「この世の神(悪魔)が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(第二コリント4:4)とあるように、悪魔の巧みな妨害があったのである。 当時の宗教家たちは、どうしてもイエスを神の子として認めることができず、自分たちにとっては邪魔者でしかなかった。イエスは、民衆の人心を既成のユダヤの宗教から奪い取ってしまった。そして、偽善的な宗教家たちの人気は引きずり落された。そして、事あるごとにイエスは、自分たちを議論でやり込めてきた。それゆえに、この時ユダヤ教の指導者たちの心を支配していたのは、宗教的妬みによることは明らかだ。彼らにとってイエスは憎き反逆者であり敵以外ではなかったのだ。だから彼らは、早くこの場をしのぎ、ローマ皇帝から派遣されている総督ピラト(死刑の決定権を持つ者)のもとに送り死刑の判決の決着をつけたかったのである。彼らは国会であるこの会議で自分勝手にイエスの死刑を勝手に決めて、夜が明けるのを待って、総督ピラトに渡した。 サンヘドリンの会議の時間は、30分程度であったのだろう。彼らは、朝になるのを待ちピラトの元へイエスを送るためにその間、イエスを弄ぶのである。顔につばきし、こぶしで打ち、手のひらでたたいた(67節)。「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」(68節)。神の子キリストに対して何という仕打ちなのか。「彼は打たれ、たたかれ、苦しめられた」(イザヤ53:4)と預言されているとおりである。この夜、主イエスを裏切ったペテロは、やがて悔い改めて神に立ち返り、復活とペンテコステの聖霊体験を経て、初代教会の指導者になった。そして、諸教会に書いた手紙でなぜ救い主がこのような苦難に遭わなければならなかったのかその理由を証している。 「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であれ監督者であるかたのもとに、たち帰ったのである」(第一ペテロ2:22-25)。これに注目しよう。 主イエス・キリストは、生まれてくることと死ぬことを選んだ唯一のお方である。イエスは、ご自分がこの世に生まれてきたのは、死んで私たちの罪を赦すためであると言われた。「人の子(キリスト)が来たのは、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)とある。私たちが十字架について知っていることは、最も残忍な処刑法であることだ。キケロは十字架刑は、「最も残酷で恐ろしい拷問である」と言っている。 イエスは、たくさんの金属片と骨の重りがついた幾重にも束ねられた革の鞭で打たれた。歴史書によると「受刑者の血管はむき出しになり、筋、肉、腱が露出した」と記されている。イエスは、約180センチほどの十字架を倒れるまで背負わされた。刑を受ける場所に着くと、約15センチの釘を両手首と足に打たれ十字架に磔にされた。そして、耐えがたいほどの苦痛のまま何時間もその場に放置されたのである。しかし、本当の苦しみは肉体的、精神的苦痛よりも、さらに耐えがたい苦痛がイエスにはあった。それは、イエスが私たちの罪をすべて背負われたことにより、父なる神から断絶されたことだ。さらには捨てられたことであった。イエスが私たちのために「死なれる」というは私たちの「身代わり」になられることを意味している。「人は一度だけ死ぬことと、死んだあと裁きを受けることが定まっている」と聖書にある。 イエスは、私たち罪を背負う者たちが父なる神の正義の罰を受けることを望まれなかった。イエスは、私たちの身代わりに十字架刑により裁かれたのである。イエス・キリストは、私のためあなたのために死んでくださったのである。「贖い」という言葉は、身代金と言い換えることができる。それは奴隷市場から始まった。ある親切な人が、奴隷を買い取り、その後解放してくれたのだ。そのためには、身代金が支払われなければならない。イエスは、十字架で尊い血潮を流し、身代金を支払ったのだ。この身代金により、わたしたちは解放されたのである。 ①罪からの解放。聖書によると神に背を向けて自分勝手に生きるライフスタイルが神の前に罪であると教えている。神から離れていることが不幸の元凶だと言うのだ。心でイエスの十字架を仰ぎ、自分の罪のためであることを認めて、赦しと救いを信じるならば、罪から解放されるのだ。人生の重荷もイエスに代わりに負っていただくことにより自由になる。 ②悪習慣からの解放。日常生活における様々な束縛がある。それは頭を押さえつけられているような重圧を感じるのではないだろうか。そこから自由にされるということだ。キリストを救い主とする信仰告白とバプテスマ(洗礼)により、キリストの霊である「聖霊」が心に住んでくださる。そのことのゆえに、神の助けによってこの世の誘惑や妨害から守られ解き放たれるという意味である。一人で闘うのではない。神の導きと助けがある。 ③恐れからの解放。イエスが来られたのは、「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル2:14)とあるように、もはや死を恐れなくてもよいようになる。それどころか、死はすべての終わりではなく、永遠の天の御国に生きることを信じることができるようになる。初代教会のクリスチャンたちは、そのような信仰により魂いやされて新しい人生を歩むことができるようになったのである。現代人の私たちも同じ信仰によりイエス・キリストが提供しておられるよきものを信仰によりいただこうではないか。祝福を祈ります。 |
題「カヤパの庭」マタイ26:57-68
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