題「ピラトの庭」ヨハネ19:1-16

 今回は、ローマ総督ピラトの官邸の庭における出来事について見たい。主イエスは、死刑の判決が下るまで、その身柄をたらいまわしにされた。捕縛されてから、まずアンナスのもとに連行され、大祭司カヤパの官邸に送られ、次に総督ピラトの元へ引かれてゆき、今度はヘロデ王の元へ送られ、最終的にまたピラトのところへ送り返されてきた。

 彼はローマ帝国の権限を与えられた者として、皇帝に代わってユダヤ人をも裁かなければならないのである。そして、ここに至りピラトは、これはどうもユダヤ人のイエスに対する妬みによる宗教問題であって、ローマの法律による死刑には相当する罪ではないと考えていた。「ピラトはイエスを許そうと努めた」(12節)とある。

 そこでイエスに尋問をして抜け道はないものかと探りながら裁判の審理を進め、また暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを死刑にしてユダヤの過越祭の際の恩赦でイエスを刑を軽くしてむち打った後に救おうとした。しかし、民衆の反応は全く違っていた。「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」(15節)とピラトに迫ってきたのだ。総督ピラトは、民衆が暴動になりそうな様子を見て、水を取り、人々の前で手を洗うことによって自分には関係がないことを示しながら、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」と言った。

 すると、民衆が「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と答えて言った。ある人たちは、これによってユダヤ人たちはこれまでの歴史においてその報いを受けきたと解している。これを反ユダヤ主義の思想の根拠と理由にされてしまうと、それは違うと思う。ドイツのナチスヒトラーのユダヤ人大量虐殺(ジェノサイド)が肯定されたり、イスラム過激テロリスト組織ハマスが、イスラエルを攻撃することを肯定したりするようになる。とんでもない脱線である。イスラエルは、歴史的に苦難の過去を持っている。エジプトでの430年間に亘る奴隷時代や建国以来の近隣諸国との争い。覇権国家により侵略による滅亡。彼らは、バビロン帝国にもひどい目に遭わされているではないか。ユダヤ人は、キリスト以後から苦難に遭っているのではない。

 さて、この決死の民衆の声に負けたピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち(これは余分な刑である。ユダヤの民衆の人々のために主を弄ぶためであったのだろう。ピラトはイエスを死刑にしないために妥協してむち打ち刑にしようとしたのであって十字架につけるならむち打ちは必要ないのではないか。二重刑になっている)、十字架につけるために引き渡した。彼はわずかな時間の裁判の裁判官として、五回もイエスに罪がないことを証言しながら、結果として、むち打ち刑のみならず、最も残忍な十字架による死刑を言い渡してしまう。

 2004年米国映画「パッション」(キリストの苦難)が世界で上映された。監督メル・ギブソンの作品。ギブソンがカトリック信者であったので、キリスト教会もこの映画に注目していた。あなたも覚えておられるだろう。皆さんもごらんになられて、イエスへの拷問場面が凄惨であったので衝撃的であったことを印象的に受け取っておられたと思う。ギブソンによると聖書に忠実に描写したということであるが、実際はそんなものではなかったと思われる。まだ映画での描写は軽いという意味である。

 さて、世界には、血塗られた残酷物語がある。人間が考え出した拷問と死刑の歴史は、悲惨な驚愕の事実である。

①骨まで見えるむち打ち刑。ローマの法律で定められた鞭は、太く短く頑丈でしっかり握れる柄がついていた。それは細い革で編まれて九つに分かれており、その先には金属ととがった骨が結びつけられていた。それで、力一杯一回叩たけば、たちまち皮膚は三ケ所、四か所破れてしまう。これで何度もくりかえし叩かれると肉が裂け血管が破れ、骨があらわになり、時には内蔵が飛び出すこともあったと記録されている。当然死亡してしまう。ユダヤの律法では、むち打ち刑は、39回で限定つきであった(40に一つ足りない鞭・申命記25:3)。40回一歩手前でやめるのである。40回打つと死ぬと言われていたからだ。だが、イエスが受けたむち打ちは、ローマ兵により執行された刑であり、好きなだけ、気の済むままに鞭をふり下ろしてよいのである。実に恐ろしい刑であった。主は、おそらく肉体的精神的にボロボロになられたのではないだろうか。

②吊るし責め刑。腕と脚に激痛が走る吊るし責めである。両手吊り、肩腕吊り、逆さ吊りなど。

③押しつぶし刑。鉄や石の重しを体に載せて押しつぶす。

④火責め刑。煮え切った鉛をかける。鉄板でじわじわ焼き殺す。

⑤水責め刑。水が絶え間なく体に流しこまれ、やがてからだの穴という穴から水と血が噴き出して死ぬ。

⑥斬首刑。一刀両断ではなく徐々に切り殺していく。

⑦絞首刑。一気につり落すのではなく、高い絞首刑台を設け、徐々に地上から宙に引き上げ時間をかけて殺す。

⑧死体合体刑。すでに死んだ人と死刑囚と縄でぐるぐる巻きにして荒野に捨てる法。灼熱の太陽に当たって腐れが囚人に及び彼も腐りながら死んでいく。

⑨十字架刑。これは、来週見ることにしよう。

罪深い罪人は、どこまで恐ろしい死刑法を考えるのであろうか。本当に残酷な原罪の性質をここでも見る。

 私たちの救い主イエス・キリストは、それらのうち、むち打ち刑と十字架刑をお受けになられたのだ。私たちは、日常的にそのようなことを考えて過ごすことはないが、この受難節においては、主の御苦しみに対して、深く思いを致すことは必要ではないかと思う。

 この年、示されることは、確かに主の十字架に至る人々の行ったことは、大罪に値する恐ろしい悪行であった。ユダヤの宗教家たち、ユダヤの民衆たち、総督ピラトはそれぞれが悪い。 しかしながら、神のいにしえからの人類に対する救済の計画は、悍ましき人間の策略や思惑や計算があったとしても、神は、それにも拘わらず粛々と救いのご計画を進められていったということである。

 「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53:7)。

 この預言の言葉は、成就されなければならなかった。そして、それは実現されたのである。私たちは、このようなところからも神を誉め称えることができるのではないだろうか。「われ行わば、誰かとどめることができようか」(イザヤ43:13)。神の救いと贖いに失敗はないのだ。ハレルヤ!

目次