当教会の男性会の名称は、ヨナの会という。今朝は、その名前に由来するヨナ書を学ぶ。そして、そこにある霊的な教えを読み取っていきたいと願っている。ヨナとは、鳩の意味がある。
歴史上の預言者ヨナは、列下14:25によると、北イスラエル王ヤラベアム二世がスリヤから領土を取り戻すことを預言した人物である。彼はナザレの北東、約5キロほどの所にあるガテヘペルの出身であるアミッタイの子として紹介されている。ヤラベアム二世の治世(BC786-746年)の初めには、北イスラエルで活躍していた。
エリシャより後、ホセアやアモスよりも前の時代の預言者である。彼は愛国心と正義感が強い人物であったようであるが、一面気まぐれで性格的欠陥もあったようである。
ある時、そのようなヨナが、主から罪と悪そのものであるアッスリヤの首都ニネベに対する宣教命令を受ける。アッスリヤは、約300年間世界支配した帝国である(BC900-607年)。チグリス川中部の東側から北緯35-37度に亘る広大な地域を支配していた。一方ヤラベアム二世は、自国の領土をダビデ時代に匹敵するほどに拡張するが、約200年後、アッスリヤのティグラテ・ピレセル三世(BC745-727年)の時代になると、アッスリヤは、北方、南方、西方へと進出して侵略を試み、各地を属国にした。そして、主だった者たちを強制移住させ、自国において支配している他民族の女たちに無理やり混血児を生ませて同化させようとしたのである。北イスラエルも例外ではなくアッスリヤに滅ぼされてしまう。
ヨナ書の記録は、ヤラベアム二世の時代に起こった出来事である。さて、ヨナはニネベへの宣教命令を受けたにも拘わらず、それを拒否して逃げた。ヨッパに行きタルシシ(スペイン)に逃亡することを企てたのである。このようなヨナの不従順を戒めるために、神は嵐を送り船をパニックに追いやり、同乗の人々もその嵐の原因がヨナであることを知り、不本意ながら彼を海に投げ込んだ。ヨナは、ニネベに向かって、どうしても主の言葉を語らなければならなかった。神からその罪を指摘せよと命じられたのである。しかしヨナは主の言葉に従わず主から離れたのだ。では、彼は海で溺れ死んでしまうのか。否である。
主はヨナに大魚を用意されて彼を飲ませられ、三日三夜その魚の腹の中にいた。彼は救われたのである。
二章は、ヨナが大魚の腹の中で祈った祈りの言葉が記されている。詩篇の影響があるような美しい表現になっている。本当ならばヨナは、嵐の海に呑まれて死ぬべき存在であった。しかし、神は彼を憐れまれ生きる道を備えられたのである。そして使命を最後まで果たさせようとしたのだ。それはあまりにも常識では考えられない体験となった。なんとどこからやってきたのかわからない大魚に呑まれ三日三夜、その腹の中に留まることになったのである。ディズニー映画のピノキオのゼベットじいさんでもあるまいに、まるでおとぎ話のようである。
しかし、主イエスはマタイによる福音書12章39節から41節のところで、預言者ヨナの三日三晩大魚の腹の中にいたことを一つのしるしとしてあげておられ、その史実を証されている。実際、この地球を何もない空間に吊り下げられておられる創造主の全能を思う時、一人の人間が大魚の腹の中に三日間いたとしても決して不思議なことではないだろう。パラダイムシフトすることである。
主なる神は、大魚をヨッパの付近に導いてヨナを陸に吐き出させた。そして、三章でヨナが再びニネベに派遣されてその預言者としての使命を果たしたことが記されている。ニネベの人々は、王から配下のすべて、そして家畜に至るまで悔い改めをもって応答した。その結果、神はニネベに対する裁きを撤回されるのだ。
しかしながら、四章では、ニネベの人々に対する神の取り扱いに対して、ヨナは不平不満を表明した(1-3節)。
神はそのようなヨナに対して、悔い改めた民を憐れむのは正しいことであることを宣べた(11節)。注目したいことは、このところで描かれているヨナの姿は、聞き分けのない子どものようだ。彼は、「主のしもべ」である。しかし、そのような偉大な器にもこういう時があった。彼は主に逆らったのだ。真の預言者でもこういうことがあり得る。だが主の摂理の愛の御手は、彼を悔い改めに導いた。
ヨナが殉教覚悟でニネベに入って主の言葉を宣べ伝えた時に彼らは悔い改めた。だがヨナはそれが気に入らなかったのだ。不快に受けとめて、怒り、すねて「死ぬ方がましだ」とまで言った。それは本心ではない。その証拠に暑さの苦労から救うために主が用意された日よけのとうごま(かぼちゃかひょうたんのような植物)を得て、「このとうごまを非常に喜んだ」(6節)とある。死にたい人間がこんな反応はしない。「死にたい、死にたい」と繰り返すのは彼の小児性であろう。私たちは、身体は大人になっているかもしれないが、ヨナのように心の小児病に罹っていることはないだろうか。そのことがいろいろな状況において神との関係が混乱したり、人間関係にも支障をきたす場合があると思われる。そこには厄介な問題が潜んでいる。
しかし、この霊的小児病に効果ある処方箋があると思う。「死にたい」と彼は言うが、ヨナはやはりそのとおり「霊的に死ぬべき」であった。気移りの気まぐれな己、罪深い自我は十字架につけられて殺されるべきである。それには、その人が小児病から癒されたいと願わなければならない。霊的に成長したいと心から願わなければならない。それとともに強い自我性から抜け出すために、聖霊の働きと助けを求める信仰を持たなければならない。神の圧倒的な力と自身の心底から変わりたいと願う思いを強く持つことである。これは祈りの中で表現されていくものだ。
そして、その結果として「我も世もなく、ただキリストの御旨がなるように」と、全く神の前に自我が砕かれてしまうことこそ、ヨナ的小児病への最善の療法であることを教えられる。
「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:21)。情も欲も意志もすべてキリストの十字架につけて処分し、御霊によって支配されて霊的ヨナとして歩んでいこうではないか。それが主の御心であることを明確に心に刻みたい。
