題「待ち望むクリスマス」イザヤ30:18

 教会暦、待降節(アドベント)第三週目である。燭台の赤いキャンドル三本に暖かい火が灯されている。皆さんの心にもアドベントの火が灯されますように、今朝もクリスマスの心備えをしたい。

 かつて志ある者たちが、世界の救い主(メシヤ・キリスト)が到来することを待ち望んでいたことを歴史は記録している。

・イエスの誕生より少しあとのローマ帝国ヴェスパシアヌス皇帝(ネロ皇帝の後)の治世(AD69年-79年)に、ローマの歴史家スエトニウス(AD69年-140年)は、「ヴェスパシアヌス皇帝の生涯」という著書の中で記している。「東方諸国一帯には、昔からゆるがぬ信仰があった。それはその頃、ユダヤから世界を支配する者(メシヤの意)が出現することであった」。

・ローマの歴史家タキトゥス(AD55年-120年頃)は、その著書「歴史」の中で、「人々が固く信じていたことは、その頃東の国が強力になり、ユダヤから出た支配者(メシヤの意)が全世界を包括する帝国(千年王国・メシヤ的王国)を築くということである」と記している。

・ユダヤの歴史家ヨセフス(AD37年-100年頃)は、「ユダヤ戦記」(AD66年-73年、ローマ軍とユダヤ人との戦争)の中で、「その頃、彼らの国(ユダヤ)から出た者が、人間の住む大地(世界)を統治する」というユダヤ人の信仰を記している。

 これらの書物は、歴史において世界統治をなさる救い主を待望していた人々がいたことを証している。そして、この事実は、新約聖書のイエス・キリストのご降誕の証言と見事に一致していることがわかる。 このように、クリスマスとは、多くの人々が待ち望んでいた救い主のご降誕の大いなる出来事なのである。ハレルヤ!

 さて、今回の御言であるイザヤ30章18節「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって。あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待つ望む者はさいわいである。」の意味は何であろう。

 直接的にはイスラエルの南ユダ王国がアッスリヤ帝国の来襲を恐れて、異教の民エジプトと同盟を結び体制強化を計ろうとするが、それは無益であって、神の言を侮る者(ユダ)には必ず刑罰が下ることを語られている。そして、主のその裁き(懲らしめ)が終わり、憐れみを下すため立ち上がるまで待っておられるというのである。一方民の側では、ひたすら受け身で、神の憐れみの業を待ち望むのである。

 ここから適応して待ち望むクリスマスについて学びたい。私たちは、どのようにクリスマスを待ち望むのだろうか。 昔、瀧廉太郎の子どもの童謡「お正月」の替え歌が流行っていた。「もういくつ寝るとお正月、お正月には餅食って、腹を壊して死んじゃった、早くこいこい霊柩車」と。なんと無礼な歌であろうか。出どころは、ドリフか吉本興業かわからないが、当時の子どもたちはゲラゲラ笑っていたのだ。

 子どもらしく指折り数えて楽しみにしながら歌う「早くこいこいお正月」とはほど遠い替え歌である。

 この体でクリスマスの待ち望みをちゃかしてもらうと困ったものだ。

 そこで、第一は「心を静めて待ち望むこと」(哀歌3:26)。「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」。忙しい年末のことでクリスマスをもじって「クリスマスは、クルシミマス(苦しい祭り)だ」と言う人がいたりするが、確かに心が騒ぐとそうなる。けれども、思い煩いや悲しみ、恐れや心配により心千々に乱れる時、敬虔な態度で心を静めて神を待ち望むのだ。これは何となく心を静かにして待つということではなく、祈りつつ待ち望むことを意味している。他者を介さないでただ神にむかってその日の救い主の誕生を思いながら祈って待つのである。
 「神と二人っきりになること」。 Get alone with God. (B・F・Buxton の言葉)。

 第二は、「忍耐して待ち望むこと」詩篇40:1)。「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ」。現代人の多くの人々が、集中して読書ができない、電子レンジで1分が長く感じてしまう。英国の記者がそれは現代人が短気になっていることと関係している、と指摘していた。確かにそういう傾向があるように思う。しかし、簡単に得られるものなど大した価値はないものだ。良きものを得るには忍耐が必要であることを覚えたい。しかし、大事なことは、人類歴史において長く忍耐して待望してきた救い主は、すでに生まれたということである。この世にすでに救い主イエス・キリストは来られたのだ。それゆえに、現代人は、せっかちに神や救い主なんていないんだ、などと性急な判断をしないで、しっかり忍耐強くその事実に向き合うことである。それは先回紹介した米国の無神論者ルー・ウォーレスに学ぶことでもあると思う。

 第三、「信じて待ち望むこと」(第1ペテロ1:13)。「いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」。「溺れる者は藁をもつかむ」とは、徳富蘆花の小説に出てくる言葉であるが、今日は慣用句になっている。「危急の際に頼りにならないものにも、すがろうとすること」の意である。たいへんな危機的状況にある時に、頼りにならないものにさえすがりつこうとするならば、神話やおとぎ話ではない歴史的かつ預言的神の言である聖書の福音ならば、もっと一生懸命になって信じてよいのではないだろうか。待ち望み信じるに値する救い主こそイエス・キリストなのだ。そのためには、現代人は、切羽詰まる人生の状況に身を置かなければならないのかもしれない。「生きるか死ぬか」の危機的な事態のことである。

 明治、大正、昭和初期にかけて日本全国で伝道した中田重治という伝道者がいた。中田師の路傍伝道の話を神学校時代に聞いたことがあった。当時の日本の多くの人々は、皆貧しく厳しい生活状況に身を置いていた。その最中、中田師は大胆にも路傍に出かけて行って恐れなくイエス・キリストの救いのメッセージを群衆に向かって宣べ伝えたのである。ある時、路傍の福音の説教が終わろうとした時、彼は近くに無造作に置かれていた縄(綱・ロープ)をつかみ取って、会衆に向かって叫びながら投げ放った。「キリストの救いが欲しい者は、この縄をつかめ!!!」と。すると何と路傍の群衆は、我先にと言わんばかりに奪い合うようにしてその投げられた縄をつかもうとした。そして、実際にこの綱をつかみ取った者たちは、中田師の導きによってこの時、救い主を信じ救われたという。

 その時代の人々は、それほどに霊的に信仰的に救いに渇いていたのであろうと思う。切羽詰まっていたのである。今日、そのような渇きが人々の心にないのが残念でならない。現代人は、あまりにもいろいろなものを手に入れてきたので、現状に甘んじて満足をしているのであろうか。けれども、人間の死の問題については、どんなにその方が物質的に恵まれ、家族関係や友人関係に恵まれていたとしても、解決されなければならないのではなかろうか。

 たとい今その問題に対して恐れも不安もないかもしれないが、死なない人は一人もいないのである。あなたもいつか死ぬのだ。私たちは、死の備えはできているだろうか。

 最近、いろいろな有名人が立て続けに亡くなられた報が耳に入ってきた。俳優の火野正平さん(75歳)が11月14日、俳優の中山美穂さん(54歳)が12月6日、元アナウンサーの小倉智昭さん(77歳)が12月19日。最近、ある教会の求道者の方が、いつ死ぬかわからない人の人生を思いこんなことを言われたそうだ。「私たちは、いつ死に行くがわからないが、生きることは自分で選べると思う。私はキリストの信仰を求めていくことにした」と。確かにそうである。人は、いつ人生が終わるかはわからない。何歳でこの地上を去るのか誰も知ることができない。けれども、この方は生きることは選べる。死ぬための備えとして生きることを選ぶ、と言われるのである。私は、この方は生きること死ぬことに対して謙虚な方であると思う。

 私の叔母は、12月8日、クリスチャンとして召された。97歳であった。叔母は、50歳の時、私の母と同じクリスチャンとして生きることを決心してその道を選んだ。そして、47年間その信仰を貫かれた。ご苦労の多い人生ではあったようであるが、まさに神のよって生かされ守られ導かれてきた生涯であったと思う。叔母は、救い主イエス・キリストのクリスマス、十字架の死と復活による罪の赦し、それを信じることによる与えられる永遠の生命を信じていた。それは、天の御国に続く希望の信仰であった。

 今やすべての地上の苦しみと悩みと悲しみから解き放たれて、妹より先に74歳で天に召された母と再会していることだろう。

 私たちもクリスマスにあたり希望の信仰を持って、新しい年に備えたいと思う。シャローム。
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