題「冷たい論断から」ヨブ記8:1-7

 年末感謝礼拝を迎え、この一年を振り返る機会としたい。巷では会社人が一年の振り返りをしていることが紹介されていた。忙しい年末、仕事納めや忘年会などのイベントに気を取られて一年の歩みと働きについて内省する時間がなくなってしまう傾向があるという。

  一年を振り返るとなぜよいのかというと、来年のためである。この年一年間の客観的評価と反省をすることによって、今の自分を正しく知り、さらなる成長と充実のために備えるのである。私たち信仰者も同じように過去を振り返ることは必要ではないだろうか。

 神の御前において、反省と悔い改めと感謝をすることによって、さらなるよりよい来年のために心と思いを整えるのである。

 さて、教会的なことをあげるならば、この年は、教会創立90周年記念集会を三度(3月3日,イースター特別聖会礼拝、5月7日、「活水の群」連合聖会Ⅱ創立記念集会、10月20日、オープンチャーチ礼拝・コンサート)持つことができた。これらの集会を開催することによって多くの主の祝福を与えられたことを思う。そのために定例祈祷会が用いられた。毎週の水曜日の昼夜と祈る人たちが尊い祈りの奉仕を積み重ねることにより主はその祈りに応えてくださった。

 また、メビック(教会学校)の再開も嬉しいことであった。しかもメッセージをCS教師だけではなく有志の方の参加も得て担当していただき、大人も一緒になって参加し御言を宣べ伝え証し続けることができた。

 そして、年の終わりのクリスマス(12月12日、OH! Happy Voiceの本町クリスマスライブ、21日、メビック(教会学校)子どもクリスマス会、22日、クリスマス・ファミリー礼拝・コンサート、24日、クリスマス・イヴ・キャンドル礼拝)には週報での報告のように多くの方々の来会を得て、真の主のご降誕を祝い礼拝できたことは大きな喜びであった。

 さらに年間を通じて、教会員(客員含め)総員での様々な奉仕も主に祝され用いられたことも感謝であった。すべてのことを心に刻み互いに主の聖名を崇めようではないか。

 さて、教会として昨年度は1名の病床洗礼者を得たが、その後長らく受洗者が与えられていない。この事は確かに教会としては残念なことではあるが、それでも新会堂完成とその後の働きにおいて、この群れで着実に救われる方々を迎える準備が進められていることを見逃してはならない。

 そこで、今朝の御言に注目したい。メッセージのタイトルは、「冷たい論断(論じ立てて断言すること)」であるが、一見感謝礼拝とそぐわないように思われるが、おいおいわかってくると思う。

 さて、私たちの教会では年間を通じて大勢の来会者を与えられたのだが、それだけでは伝道は進まないと思っている。たといイベントとして大盛会であったとしてもそれが集われた方々の救いに直結しているかというとそうではない。
 確かに教会で開催される音楽を用いたコンサートなどに来会される方々にとっては、教会の敷居が低くなり教会に来易くなったことはあると思われる。「教会人は何をする人ぞ」と外側から見ている人たちにとっては、このようなイベントに参加されることによって、教会を直接見てクリスチャンに直接触れ合うことができたのではないだろうか。そして、来会された方々が教会に好印象を持ってくださってアンケートに感想を率直に記していただいた。感謝なことだ。

 大事なことは、その次である。教会員が祈りつつ集会の案内をし誘ってくださった方々に、さらに個人的に継続的に関わっていくことである。つまりお誘いした方々をイエスさまにお導きすることだ。けれども、よく教会で主の証しや伝道について語られる時、一般的に言われることは、「私はクリスチャンとして、聖書知識に乏しく伝道の訓練を受けてないのでまったく自信がない。主の証人なんてもってのほかである。誰かに福音を伝道するなんてとんでもない」ということを聞く。

 では、信徒による証しと伝道は、本当に知識的、実践的に訓練された立派で信仰の確信に満ち溢れている力強い人でないとできないのであろうか。そういう方々の信徒伝道の成功例を聞くことはある。しかし、その限りではないことも知っている。実に素朴で弱さや欠点を持っているごく普通の方々が主に用いられることがある。それも事実である。

 どうしても、大切なことは、皆さんがどなたかとの個人的関わりによる愛と涙の添えられた地道な祈りであると思っている。

 けれども、私たちの自己像(セルフイメージ)が貧しく乏しいと、なかなか誰かと個人的に関わり証しや伝道をするのは難しい。ある意味で自分の霊性のことだけで手いっぱいで他の方々のことなど考えられないでいる場合が多いかもしれない。実際、クリスチャンも生活していると、年間いろいろな闘いがある。家庭での家族の問題、生活の問題、子育ての問題、仕事場での人間関係の問題、そして、日々つきまとう内面の罪の問題も絡みついてくるだろう。

 このような諸問題に取り組んでいくなかで、へとへとになってしまい、それだけで精一杯であると言われるかもしれない。ましてや他者に対してキリストのことを話したり、伝道などは難しくてできないと考えてしまうのではないだろうか。「全く同感!」とおっしゃる方々もいることだろう。それだから、「私にはどなたかを集会にお誘いすることしかできない」と言われるのであろうか。

 これらの闘いにおいて最も一番厄介なものは内面の罪の問題ではないだろうか。魂に渦巻くクリスチャンとしてのこの世の誘惑との葛藤や抵抗(ローマ人への手紙7:18-25)。それに伴う霊的敗北。これが私たちの日常生活のすべてに陰を落としているように思えることもある。けれども、逆にいうならば、私たちがこの罪の問題の解決法を持っているならば、霊性を整えることができる。最も難しい問題から解き放たれることによって他のすべての問題にも処することができ越えていくことができるのではないだろうか。

 さて、ヨブ記のメッセージに耳を傾けよう。ご存じのようにヨブは証しの立つ立派な信仰者であった。だが、彼が妻を除く家族と財産を失い自らも恐ろしい病気になった直後、素晴らしい信仰を表明するものの、三人の友人のお見舞いの訪問を受けてから、それまで己の意志の力で保持していた自制心が崩壊してしまうのである。

 ヨブは、子どもたちと財産を失った時、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と語って罪を犯さず、神に向かって愚かなことを言わなかった。また、象皮病いう奇病になり体中ぼろぼろになった時も、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言いそのくちびるをもって罪を犯さなかった、とある。ところがここに至り、ヨブは自身の存在を否定し呪い、悲観と絶望の淵に自ら落ちて行ったのである。そこにもはや優等生的ヨブの姿はない。

 私たちも口先では信仰的なことを言いながら、本音を隠していることはないだろうか。ヨブは、それまで一生懸命に自分を保っていたのだ。けれども、何かの拍子に根底からすべてが崩れてしまうことはあると思う。それが友人たちの来訪であった。

 そんなヨブの自己像が健全であるはずがない。そういうヨブを三人の友人たちが入れ替わり立ち替わり寄ってたかって因果応報の思想で断罪し裁くのである。このように他者から批判されたり裁かれたりするならば、人はもう立っておられなくなるだろう。

 8章では友の二番手ビルダデがヨブに切り込む。三段論法でヨブを断罪する。ビルダデもヨブの人生に起こったことについて因果応報と決めつけ、「原因なくこのようなことが起こるはずはない。子どもに罪あり、ヨブに罪あり、だから裁かれたのだ」と切り捨てるのである。ビルダデは先人の伝説と信条で論をかためてヨブに鋭く悔い改めを迫る。 それはあまりにも冷たい論断であるが、それには説得力がありそのとおりであると思わされる。

 しかし、ヨブは納得しない。こんな霊的状態では、主の証しなどはできない。

 ヨブは、ここで神と人に対して益々心を硬化させる。ある意味で霊的に暗礁に乗りあげてしまい自分でもどうしようもなく凝り固まってしまった。皆さん、ここで重要なこととして、本当は、ヨブの問題は罪を犯したかどうかにあるのではないということだ。彼はたといどんなに罪を犯しても、それを赦してくださる神に寄り頼もうとしないところに、根本問題がある。

 ヨブは、神と人との関係が縺れにもつれてしまっていたが、本当は、どんなに罪を犯してきたとしても、神の恵みはそれを赦してくださる。聖めてくださる。包み込んでくださる。大事なことは、そこで神の御前に遜り、神に赦しを乞い求めることである。今日は、新約時代においてイエス・キリストの十字架による贖いによって明白ではないか。

 「あなたの初めは小さくあっても、あなたの終わりは非常に大きくなるであろう」(7節)。新改訳「あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる」。

 これは、ビルダデの預言的論断である。一見、彼の冷たい論断であったかもしれない。しかし、ビルダデの考えや思いを越えて、ここに神の御心が確かに明言されていると思う。もしヨブがどんなにちっぽけな存在であったとしても、あらゆるしがらみを振り払い、心の鎧を取り去り武装解除をするならば、その時には神との関係が生き生きと回復される。最初は土の器として限界をしょっている脆い存在であるかもしれないが、神の赦しと聖めの衣(キリストの贖いの衣)が着せられるならば、なんの妨げもなく、ヨブは新しい人として大きく主の証人として用いられることができる。

 一方的にただヨブを裁いているビルダデの冷ややかな論断の中にも、将来主の器として彼が大きく用いられることを予見しているのだ。兄弟姉妹よ、これは年の終わりと新年のための良き信仰の導きではないだろうか。一年を振り返り、すべての心の拘りを取り去って、心を一新して備えようではないか。たとい自分自身が己に納得することなく自責の念に囚われていても、また誰かが自分を訴えても、私たちは常に悔い改めて生きる道が用意されているのである。それを邪魔するものはいない。

 宗教改革者のマルチン・ルターが、「われらの主であり、また師であるイエス・キリストは、マタイ4章17節で『悔い改めよ、天国は近づいた』い言い給う。ゆえにキリストはこの言葉によってキリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを欲し給う」と述べているとおりである。

 さあ、私たちの家族や友人のために生きた主の証人とさせていただろうではないか。
 「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)。
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