| 「志」とは何か。ある目的に向かって動くこと。目的を立てること。めあて、立てた信念のことである。志は、モチベーション(人が何かをする際の動機づけや目的意識)が重要になってくる。だから企業でも社員に価値観教育をするといわれている。その志のモチベーションをあげる言葉がいろいろあるが、「努力は必ず報われる」「道は百も千も万もある」「諦めたらそこで試合終了だよ」「敗北は最終目的ではない」「小さなことをコツコツと」等だ。 私たちも新年にあたり良い志を得ることが必要ではないだろうか。 聖書にこうある。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(2:13)とある。 新改訳「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」。 共同訳「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。 この御言は、文脈から読んでいくと、「救いの達成についての教え」である。ピリピ教会には不一致の問題があったようだが、12節「あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけではなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」と言っている。 パウロは、愛情を持って「愛する者たちよ。あなたがたは、主の謙遜に学び信者同士互いに尊敬し合い、与えられた信仰人生をそれぞれ全うしていきなさい」と語っているのだ。 「自分の救いの達成」とは、自力救済を教えているのではない。 救いには三つの側面がある。 ①人は神の救いに参与できない。神の御業である。ただ恵みによって人は救われる。 ②人は生きている間に神の聖化の恵みに参与することができる。私たちもこちらの信仰によって神と共に働いて聖潔(きよめ)られるのである。 ③救いの完成は、栄化(キリストと同じ姿に変えられること。神の国において)のことである。これは、地上での神の恵みではない。だから互いに地上での信仰生活をしっかり全うして天に帰らねばなない。 皆が一致して教会的に救いの達成に努めることを励ましているのである。「この良き志」は、神が与えてくださっている。その神がそれを実現してくださると言っているのだ。これが、第一のメッセージである。 第二番目は、霊的な適用である。神は、私たちの人生を豊かに祝福して用いてくださるために、その他の多様な「良き志」を与えてくださる。 かつてメンデルスゾーン(1809年-1847年、ドイツのロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト。オルガニスト)がドイツのフライブルクの教会の大きなオルガンを見に行ったことがあった。高齢者の管理人が突然の来訪者に対応したが、その人が誰であるのか知らなかったので使用することを拒んだ。しかし、何度も弾くことを求めるのでついに根負けして、二、三の旋律だけならば許そうということになった。 メンデルスゾーンは、椅子に座ると間もなく、大変素晴らしい音色で演奏を始めた。そのオルガンから奏でられる音楽はまさに天にも届くものであった。管理人は、全く魅せられてしまった。 そしてその偉大な音楽家に近づいて、「あ・な・た・は、あなたは、ど・な・た・ですか」と問うた。その名前を知ると彼は恥じ入って自責の念にかられて言った。「私はあなたに対して大変失礼なことをしました。どうか私を赦してください」と。 神は私たちに良きもの(賜物や才能など)を与えておられる。良き志を与えておられるのだ。まだ自覚していないかもしれないが、神は私たちの生涯を捕らえて、与えられる良きものを用いたいと願っておられる。けれども、多くの場合、私たちは引っ込み思案になって、神に私たち自身を与えるのを差し控えてしまう。「はい、信じます。従います。やってみます」と許可することを神に拒んでしまうのである。 だがもしその時、私たちが、信仰を持って自分自身を神に明け渡すならば、神は小さな私たちの魂から、素晴らしい天の音楽を奏でる御業を生み出してくださるのだ。 「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)「御霊によって進もうではないか」(ガラテヤ5:25)とある。私たちは、どこかで自分自身を制限するのではなく神に頼り、キリストの御霊に頼り、信じてやってみようではないか。 |
題「良き志」ピリピ2:12-15
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