題「愛の実践」第一コリント13:1-8

 日本語の「愛」は、もともと漢語であった。仏教の言葉で、愛は、欲望を満たす渇愛(かつあい)、愛欲、愛執(あいしゅう)といった意味で煩悩の一つとされていた。仏教では、愛は苦であり、悟りの妨げであり、心の執着を離れることを目標としている。

 そこで、明治時代に聖書が日本に持ち込まれた時、宣教師たちは、神の「LOVE」をその当時の「愛」と区別するために「御大切(ごたいせつ)」と訳したそうである(愛とは、相手を大切な存在として扱うこと)。今日、日本語の聖書では、神の「LOVE」は愛という言葉に定着していてなんら異を唱えることはないだろうが、なお正しく神の愛として受けとることが難しい人たちが大勢いると思われる。神の愛と人の愛が言葉とし混乱しているのである。

 さて、この第1コリント人への手紙13章は、愛の章として知られている。クリスチャンにとっての愛の雅歌(歌の中で最高の歌の意)、高価な真珠、宝石とも言われている。ここでの「愛」は、英語の「LOVE」であり、ギリシャ語の「アガペー」という言葉で「神の愛」を意味している。

 すでにご存じのように、ギリシャ語では「愛」を使いわけしている。男女の愛をエロース、肉親の愛をストルゲー、友情の愛をフィリアとして人間の愛を区別している。昨今結婚式場やホテルのチャペルでキリスト教の結婚式を行う場合に、第1コリント13章の抜粋が式次第に載せられているのを見ることが多いが、参列者はどの愛と理解しているのであろうか。

 さて、パウロは、12章から14章まで霊の賜物について述べている。13章では最も優れた賜物である「アガペーの神の愛」をあげている。 1節から3節では、「もし愛がなければ」と三回繰り返している。ある者たちは、御使いの言葉(異言)や預言を語ることができるから、と優越感に浸っていた。また知識に通じて強い信仰があるからと言っていばっていた。さらには全財産を施したり自ら進んで犠牲になることを覚悟しているので他人より偉いと誇っていた。

 けれども、「もし愛がなければ、いっさいは無益(無に等しい)である」(3節)と述べている。 4節からは愛の内容を語っている。「愛は、寛容、情深い、ねたまない、高ぶらない、誇らない、無作法をしない、利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、不義を喜ばない、真理を喜ぶ、すべてを信じ、すべてを望み、すへてを耐える、愛はいつまでも絶えることはない」(~8節)とある。これらの愛の内容の注目点は、すべて三位一体の神であり第三位格の御霊の賜物であることだ。文脈から読んでいくと、これらの愛は、強い信仰があっても、真理の知識に富んでいても、捨て身の覚悟があったとしても与えられないものである。 これは、聖霊が深い御心によって与えられる良きものなのである。

 「だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう」(12:31)。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22,23)。

 このように聖霊の賜物が、神から賦与されるものであるならば、この愛は、人間の理想とする愛のことではなく、人間には根本的にこの愛はないということをしっかりと捉えていなければならないと思う。

 よく言われることで、一週間に一度この章を読む時、「愛」のところを自分の名前を入れ、すべてを否定形で読む。その次に、イエス・キリストの御名を入れてそのまま読む。両方ともにしっくりとくる。 私たちは、そのことによって、如何に13章の愛が神の愛でなければ成立しないことかを痛感させられるのだ。 私たちは、愛の実践者として主イエスの愛によって支配されていきたいものである。

 フランスのリヨンの主教・神学者イレナエウスは、「愛は天からの最もすぐれた贈物で、すべての徳や神の賜物と恩寵のうち、最高のものである」と語っている。

 さて、「雨ニモマケズ」で知られている宮沢賢治のことをご存じであろう。彼は、一人の人の影響を大きく受けている。その方は斎藤宗二郎氏である。斎藤さんは、1905年、岩手県花巻市でキリスト信仰を持った。お寺の息子であり僧侶の父親の影響で国粋主義にもなっていたが、イエスと日本を愛する人、内村鑑三師の著書に出会い信仰を持って救われた。

 教師であった斎藤さんは職場で信仰を証しするようになるが、反対されて辞職に追い込まれた。その後、たいへんなご苦労をして、隣人であるかつての教え子、老人や病人に関わり続け彼らを助けた。朝3時から7時30分まで仕事をして、その後、困っている人々の友となって一日奉仕のために生きていったのだ。夜は自分のために聖書を学び信仰を深めていった。何と一日の平均睡眠、3~4時間であったという。そのような人々に仕える日々であったが、迫害は収まらなかった。一番、大きな迫害は、一人娘愛子さんをいじめで殺されたことだ。お腹を蹴られてそれが原因で腹膜炎を起こして死亡したのである。

 しかし、斎藤さんは、恩師である内村鑑三師の援助も得て悲しみを越えていった。1925年47歳の時、彼は、この地を離れ東京に行くことを決心をした。住み慣れた町を離れることは、いいようのない寂しさを覚えたようだ。町を離れるその日、彼は家族と一緒に駅に来た。するとどうしたことか。誰も見送る者などいないと思っていたが、そこには大勢の人々が見送りに来てくれていたのだ。教え子たちがいた。近所の人々、僧侶、神主、老人たち、病人たちも、皆が斎藤さんと別れるために勢ぞろいしていたのである。

 駅長さんは、別れを惜しむ人々のために、列車の時間を遅らせた。機関士は、列車がプラットホームを離れる時、最徐行してくれた。そして、人々は、列車が見えなくなるまで、斎藤さんとその家族に手を振って別れたのである。
 その別れを惜しむ人々の中に文学青年の宮沢賢治がいた。彼は、斎藤さんの人生に感動して手紙を書いた。斎藤が東京に着いて最初に受け取った手紙はこの青年のものであったのだ。

 その3年後、斎藤さんを思い出して宮沢は「雨ニモマケズ」の詩を書いたと言われている。この詩の最後の「そういう者に わたしはなりたい」とは、斎藤さんのことなのだ。(背景となったモデルがあったと主張するのは、元岩手県高校校長、元短大学長、元大学講師を歴任された照井昭助氏である)。それは神の愛の証しとなった。私たちも、キリストの愛を身に受けて真の愛の実践者にしていただきたいと思う。
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