題「人生を何の上に建てるのか」第一コリント3:10-13

 今朝は、先週の再臨の学びの続きとしてお聴きいただきたい。まずコリント人への手紙の概観を見ておこう。この手紙は、使徒パウロがAD55年から56年頃に執筆したものであろうと言われている。それはエペソから書き送られた。 コリントは、ローマ帝国で最も大きな都市の一つである。人口40万人のギリシャの商業都市。東西に海を控え、航海交通の要路にあり、人々は贅沢を窮め罪悪が横行していた。その時代「コリント人のように振る舞う」という言葉があったそうだが、それは、不品行を行うことを意味していたほどこの町は堕落しきっていた。そして、その付近には千人以上の娼婦がいたといわれ淫蕩の町として知られていた。

 パウロは、この地で一年半ほど伝道して教会を建設した(使徒18:1-18)。「パウロはアテネを去ってコリントに行った。そこで、アクラというポント生まれのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。・・・パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めた。・・・多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマ受けた。すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた。『恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えることはできない。この町には、わたしの民が大勢いる』。パウロは一年六カ月の間ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた」とあるとおりである。

 主の福音宣教というものは、様々な闘いがつきものである。コリントでの働きも同様であった。アポロやペテロもコリントで伝道したのだが、救われたものの未熟な信者の群は、教会内に分派が起こってしまった(1:12)。「はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロにつく』『わたしはケパ(ペテロ)につく』『わたしはキリストにつく』と言い合っていることである」とある。この分派により教会の秩序は乱れ、信者の中に罪を犯す者まで出てしまう始末である。

 パウロはこのことを憂慮してコリントに手紙を送ったが(5:9)、あまり効果がなかった。「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが」とある。その他にも種々の問題があったので、教会はパウロに手紙を送って助言を求めた。その返事がこの手紙なのである。

 悲しきかなこの教会は、キリストの教会なのに様々な問題が渦巻いていた。党派、不道徳、訴訟、偶像にささげる肉、主の晩餐の乱用、偽使徒、集会の無秩序な行為、復活に関する異端思想等々。「罪赦され神の子にされた恵まれた教会であるはずなのになぜそのような問題がキリスト教会にあるのか」と思わず批判の言葉が聞こえてきそうである。

 けれども、聖書は地上にあるキリスト教会が完全な神の国のような世界であることを教えていない。「新天新地・神の国・天国」は、やがて与えられる終末的出来事のことであり、その時には完全な神の統治による世界が確立するのである。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)とあるとおりだ。これは現世のことではない。現在、米国のある福音派教会でこの地上において神の国を実現するような運動が起こっていることを耳にするが、そんなことを聖書は教えていない。

 この世にある教会は、主なる神から見るならば、なお不完全で不十分な罪赦された集団にしか過ぎないことを忘れてはいけないと思う。この手紙は、そのような限界を背負った教会が成長する過程で直面する諸問題に対してパウロの警告と教えが語られているのだ。それは今日の教会にも適用されるものである。

 さて、コリント教会には、三種類の信者がいたようである。2章14節には、「生まれながらの人」が出てくるが、それを含めて「霊の人」(1節)、「肉に属する人・キリストにある幼子・肉の人」(1,3節)である。まず、生まれながらの人というのは、生まれ変わっていない人のこと。キリスト教に感化され思想的にも変化して洗礼も受けていて教会に連なっているが新生の体験がない人のことだ。肉に属する人というのは、新生はしていても霊的に未熟な信者を意味している。そういう人たちが、コリントの教会で散見された。

 素晴らしい教会であるはずのコリントの教会にあった党派心、妬み、争いなどは肉の行いであると、ガラテヤ5章19,20節ではこう指摘されている。「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」とある。これらの諸問題に押しつぶされない前に教会は直ちにきよめられなければならない。「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(第一ペテロ1:16)とあるとおりだ。

 さて、パウロはコリントの信者に、3章9節で、「あなたがたは神の畑であり、神の建物である」と言っており、「神から賜った恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。 しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい」(10節)語っている。そして「この土台はイエス・キリストである」(11節)と宣言している。

 信者の人生の土台は、主イエスである。その土台の上にそれぞれの信者の人生の家を建てるのであるが、建て方に気をつけるように警告しているのだ。 「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものかを、ためすであろう」(12,13節)とある。

 ここでその材料として、「金、銀、宝石、木、草、わら」が出てきているが、これは字義どおりではなく、二種類の意味で、一つは、「神の宮らしい建材か」、もう一つは、「自分勝手な家を建てる建材か」という区別である。そして、この比喩は何かというと、

①正しい真理に裏打ちされた知識と異端思想で歪められた知識。どちらか。
②生活、実践、行為のことで、神の御心を問う生活と自分本位に思いのまま振る舞う生活。どちらか。
③愛と欲望の聖別。神を喜ばせる生き方かどこまでも自分自身を喜ばせる生き方かどうか。どちらか。

 終末の日、「それぞれの仕事は、はっきりわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」(3章13節)と終わりの時ことが記されている。
 私たちの人生がどうであるのかが、「かの日」にわかる。すなわち、終末の「主の日」に明らかになるのだ。「かの日」の「ためしの火(揺さぶり試す意)」【ゲヘナ・地獄への裁きのことではない】によって「それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる」のである。すなわち、自分自身が人生においてどのような建材を使って、土台であるキリストの上にどう建てたのかが判明する。何か背筋が伸びる思いである。

 さあ、最期にこの信仰で歩む時、私たちは他者との関係をどう考えたらよいのだろうか。主の復活後、ペテロは年若いヨハネの将来のことが気になってしようがなかった。だが、主は「ヨハネのことがあなたに何の係りがあるか。あなたはわたしに従ってきなさい」と言われた。人は、他人のことが気になるものである。「最終的にあの人はどのような家を建てるのだろうか。そして主はそれに対してどういう評価をなされるのだろうか。いやあの人は主の御心を行ってはいないのではないか。あの人は悪い僕ではないか。あの人は主に裁かれるのではないか」と、裁きの眼差しで見ることもあるのかもしれない。

 それに関して、主はマタイ13章24節-30節で毒麦の譬え話を語っておられる。これによって教会にはいろいろな分子が混在しているのでなかなかわかり辛いことを教えておられる。「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた」(24-26節)とある。そこで、その畑には、良い種による麦と毒麦の二つになりわかり辛い。それでその畑の主人は、敵の業である毒麦をすぐに抜いてしまうのではなく、収穫まで両方が育つままにするように指示し収穫の時になったら良い麦と毒麦を判別するように言われた。これは神の賢いご判断であろう。

 このことから、私たちは教会員の兄弟姉妹のことを軽々しく裁いたりすることは慎んでおくことが肝要であることを教えられる。そうしないと、主の畑の良い麦まで抜いてしまうこともあるからだ。それだから、私たちは神の御前に恐れをもって「かの日」の「ためし」を迎えなければならない。どうか再臨の備えとして、お互い自分自身に気を付けて「かの日」のために心を整えようではないか。「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(第一コリント16:22)
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