題「霊的な食物」出エジプト16:9-16

 クリスチャンとしてわかりきったことであるはずのものが、なかなか実践することが難しいことがある。今日はそのような内容である。

 「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」(マタイ6:25)と、主イエスは山上の説教において語られた。群衆の日常の関心事は衣食のことである。それは今日も同じであろう。

 人は生きていくために心遣いをしながら労し働き果実を得て生活している。 だが注目したいことは、6章25節から34節までにおいて、「思いわずらう」(心配する。新改訳)が七回も出てくる。思いわずらいとは、まだ起こっていないことを不必要に心配することである。心配りを通り越して心配症に囚われることは如何なものか。それは不信仰ということにもなる(ヘブル3:12)。「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかもしれない」と警告されている。 とはいえ、私たちは弱く思いわずらいのとりこに陥ることはあり得る。

 そこで、主は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(6:33,34)と励ましてくださる。人が神第一の生活を確立するならば、神が責任をもってその人を養い守り導いてくださるというのである。すでに周知のところであろう。中学高校の頃、苦労人の母がよく口にしていたことを思い出す。

  旧約聖書も見ておきたい。イスラエルの出エジプト(奴隷の地からの解放)は、彼らの信仰が試された出来事であった。ご存じのように、紅海を後にしてメラに着いた時、民は水が苦くて飲めなかった。彼らは指導者モーセにつぶやいた。モーセの叫びの祈りに応えて主は憐れんでその水を甘くされた。その所から主は民のために定めとおきてを立てられ、彼らの信仰をテストされることになった。

 次にシンの荒野に来た時、彼らは今度は食べることに窮した。早速、民はモーセとアロンにつぶやいた。「エジプトはよかったが、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆をここで餓死させようとしている」(3節)と抗議した。その時、主はモーセによって「夕暮れにはあなたがたに、肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってではなく、主にむかってである」(8節)と諭している。あなたがたは、神のお心がわからないのか、との意味である。

  4節には、天からのマナは、「民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない」と命じられている。彼らは毎日天幕から出てマナを集めなければならないのだ。次の日までとっておくと、虫がついて臭くなって食べることができなかった。ところが、六日目だけは彼らに二日分のマナが与えられた。七日目は安息日であって、人々が外に出てマナを集めることができなかったからである。

 モーセは、「見よ、主はあなた方に安息日を与えられた。ゆえに六日目には、二日分のパンをあなたがたに賜るのである」(29節)と語っている。神は安息日を守る者の生活を保証されるということである。申命記8章9節では、荒野の40年間、「あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である」と証しされている。私たちにとっても、このことを信じ大胆に生きていくことが何よりも大切であることを教えられる。

 主は、イスラエルの荒野の生活において、このことを定めとおきてにより民を試されたのである。つまり民が神の御言を信じてそれによって生きていくか否かをテストされたということである。 私たちも日々の歩みの中で同じようにこの試みにあっているのだと思う。信じきれない弱い自分を自覚する時、「主よ、憐れみ給え」と祈るしかない。

 最後に霊的な適用として、「彼らは、朝ごとにそれを集めた」(21節)とある。今日「マナ」は、神の御言でもある。神は物質的な食物だけではなく、霊的な食物として聖書を与えてくださっている。長年体験的に教えられてきたことは、神の言の食いだめはあり得ないということだ。ある時、一気に何十章も聖書を読んだとしてもそれで何カ月も信仰の養いが有効であるとは言い切れない。。毎日、毎日、朝毎に天のマナである御言を食べていくのである。そうしないとすぐに忘れてしまう。「今週の礼拝説教は、何であっただろうか」と言う人たちが少なくないのはそのためである。私たちは、今日というこの日を、クリスチャンとして生きていくために大きな力を必要としているのである(哀歌3:22,23)。

 「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」とある。わたしたちは、肉の食物だけではなく、霊的な食物により生かされるのだ。

 かつて、米国の世界的伝道者ビリー・グラハム師がこのようなことを語っていた。「デボーションについて学んでいないクリスチャンがいる。ある警察官が、『勝利の秘訣は何ですか』と質問した。それに対して私は、『そのために特別な呪文があるわけではない』と答えた。もしそれをひとことで述べるとすれば、私は【明け渡し】であると言いたい。次は【献身】であろう。とにかく日ごとのキリストとのデボーションに代わりになるものはない。あなたの静思の時、祈りの時、みことばの学びの時は、幸福なクリスチャン生活に絶対欠くことができないものである。日々のキリストとの歩みなしに、幸福な、力強いクリスチャンになることはできない」と。

 どうか、デボーション(明け渡し)生活を何度失敗したとしても何度でもやり直して止めてしまうことがないようにしようではないか。心からお勧めしたい。
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