| 学習効果で「繰り返し学習」がある。記憶の定着や強化が促される学習法のことである。これは、学んだことを素早く引き出すことができるようになったり、知識やスキルをより深く理解し、柔軟に応用できるなどの効果があるといわれている。皆さんも取り組まれたことがある法であり、お子さんやお孫さんが今まさに実行している学習ではないかと思われる。 聖書の学びにおいても同じことがいえるのではないだろうか。今回の聖書箇所とテーマも私たちはこれまで何度となく読み学んできたところではないかと思うが、なかなか身についていないことにがっかりすることがある。 けれども、真理の言葉においても繰り返し効果があることに期待しよう。時間をかけてじわっと心にしみわたり身に着くまで何度でも学ぼうではないか。 さて、仏教用語で「煩悩」という言葉がある。簡単にいうならば、苦悩や心痛の意味で、心を煩わし、身を悩ます心の動きのこと。心身を悩ます一切の精神作用のこと。「百八(ひゃくはち)煩悩」ともいわれ、人間が過去、現在、未来に亘って経験する多くの心の迷いや苦しみのことで、それが108つあるというのだ。人間、悩み苦しもうとすればいくらでもできるということだと思う。自分には関係ないと言われる楽観主義の方も全く煩悩から自由にされているとはいえないのではないだろうか。 さあ、クリスチャンの兄姉は如何か。老若男女、確かに生きていれば悩みはつきものであろう。人の悩みはいろいろとある。自分の無知で起こるもの、自分のわがままで起こるもの、自分で背負いこむことではないが、周辺の人々によるいじめや悪意によるもの、自分ではどうすることもできない生まれながらの障害、事故や災害によるものもあろう。さらには、原因らしい原因がないのに思いわずらうこともある。これを取り越し苦労という。これは苦しいことが起こる前に悩み、起こってからもう一度悩む。他の人よりも二倍悩むのだ。厄介な悩みである。 これらの思い煩いほど非生産的なものはない。そして、精神衛生上よくない。そこには何一つ建設的なものは生まれてこない。しかし「わかっちゃいるけど〖思いわずらうことは〗やめられない」のが人の性であろう。 そこでこれまで多くの人たちは、解決するためにがむしゃらになって様々な努力をしてきたのではないだろうか。その法として、お金、地位、名誉、権力などを求めてきた。けれども、そのことによって心に平安を得たかというとそうではなく、却って不安や恐れや焦りが益す場合が多いことを見聞きする。本当の平安を得ることは如何に難しいことであろうか。 使徒パウロは、この4章7節でこう語っている。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることができない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」と。「そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平安が、あなたがたの心と考えとを・・守るでしょう」(共同訳)、「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安があなたがたの心と思いを・・守ってくれます」(新改訳)、「そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神様の平安を経験できます。キリスト・イエスに頼る時、その平安は、あなたがたの心と思いとを静め、安らかにしてくれるのです」(LB)と。 「そうすれば」とある。 では、どうすればよいのだろうか。その前のところを見ればよい。 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(6節)とある。 それは、生ける神との関係を祈りによって絆を強くすることである。クリスチャンにとって信仰生活とは、倫理道徳を求めるのではなく、神との関係を整え神との生ける繋がりを継続させることなのである。三つあげたい。 ①「心配しないで神を信頼する絆」。思い煩いとは、自分に都合のいいようになることが解決だと決めつけてかかる利己主義と、そうならない自分の弱さが、思い煩いが根本にあるのではないだろうか。つまり自己中心的な空転である。それを手放すことが重要になると思う。「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」(詩篇55:22)とある。ここでの「重荷を主に委ねる」とは、「神の方に自分の重荷を転がすことである」「自分一人で背負い込まないで神に代わりに背負ってもらうことである」。 富山の薬売りのおばあさんの話を聞いたことがある。その行商のおばあんさんは、悪天候のある日、移動のために高いお金を払ってタクシーに乗ることにした。ところが、この方は、重い荷物を背負ったまま後ろの席に座っていた。タクシーの運転手のおじさんは、バックミラーでそのことを確認すると、思い余ってこう言ってあげた。「おばあさん。せっかくタクシーに乗ったのだから、その重い荷物は脇に下ろされた方がいいんではないですか」と。確かにそうである。荷物を下ろす場所があるにも拘わらず、それを背負ったままであるならば、何と残念なことか。 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と主は言われる。主の身許が重荷を下ろす場所である。お互いの人生においてどんなに厳しい状況に立たされることがあったとしても、逃れ場があることを思い返そうではないか。全知全能の神は、私たちの人生の愛のご計画において決して失敗しない。苦難や悲しみの時、「なぜこんなことが?」と問うのではなく、「あぁ、ここにも主がおられる」と、どこまでも主を信じることである。リアルに神を信頼しよう。 ②「事ごとに祈る祈りの絆」。祈りは独り言ではない。主との交わりであり会話である。心にある諸々の思いを神にすべて申し上げて祈ることだ。ありのままの心の思いを、素直にそのままを神にお話することである。態度は謙遜に祈ることだ。しかし、時として私たちは諸問題によって心が千々に乱れて悶絶しながら怒りの祈りをすることもあるかもしれない。しかし、主はそのような私たちの煩雑(はんざつ)な問題に対しても忍耐深く聞いてくださることだろう。普通の人間ならばとっくりさじを投げられてしまうであろうが。三一の神の第三位格のお方、聖霊の助けがあることを覚えたい。 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいのかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ローマ8:26)と。 ③「すべてを感謝する感謝の絆」。主に感謝することは、自分自身を問題の縛りから解放することである。また祈ったことが適えられることを受け取る祈りでもある。先取りの祈りである。神が祈りに応えて最善をなしてくださることを信じる祈りである。ミセス・チャールズ・E・カウマンは、こう言っている。 「私たちの水差しを満たすのに十分な水が、神の大海にあるのではありませんか。日々の必要についても神は供給を約束されます」と。 さあ、主が無尽蔵の豊かさの中からよきものをお与えくださることを信じ、「あなたがたは、主にあって喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(4:4)とあるように、諸問題を足下に置いて、感謝しつつ主を喜ぼうではないか。主の絆に結び合わせられて。 |
題「三つの全き平安」ピリピ4:4-7
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