題「その道一筋」ピリピ2:12-15

 「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」とは、作家、武者小路実篤(さねあつ)の言葉である。
 「ひとすじの道」は、長野県出身の婦人問題評論家、丸岡秀子の自伝的小説の題名である。
 「ひとすじの道」とは、美空ひばりが歌ったもので作詞家、吉田旺の作である。

  何でもその道一筋に生きることは素晴らしいと思う。人々もそういう人生を全うした方々に憧れをもって尊敬しているのではないだろうか。

 松本出身の歌人の窪田空穂(うつぼ 本名通治 1877-1967年)もそのような人物であった。 彼は、東京専門学校(早稲田大学前身)に学び、学生時代より与謝野鉄幹に師事し歌人の道に入った。新聞記者をしていたが、後に早稲田の教授にもなり多くの著作を残している。彼は一時挫折し学校を中退し婿養子となったがうまくいかず離婚し家に帰り再び上京して復学した。

 虚しい生き方に悩み、ある日、市ケ谷教会で植村正久牧師(日本基督教会、横浜バンドの指導者)の説教に心打たれた。「一条の光のように私の胸にさし込み、私の前途をさえぎっている壁を突き破り、暗きが消えて、にわかに明るくなった」と、その体験を語っている。 窪田は、1904年(明治37年)に市ケ谷教会で植村師から受洗した。その後、植村師が富士見町教会に転任してから、教会を一時離れたが、終生植村を師とし敬愛し、他の文学者と違って最後まで神を信じ続けた。

 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(2:13)とある。彼は志を得て歌人として生きた。しかし、それを根底で支えたのはまさに人生の生きがいとなったキリストを信じる信仰であった。

 窪田は、後年、植村師のことを記している。かいつまんでまとめると、「植村師のその物言い、挙動は実に安らかで、説教は実に不器用で同時に実に感銘的であった。言うことは、突っかかり吐き出すように言う短い句で、圧縮した鋭い句であった。それは内省的で赤裸々な体験的説き方であり、信仰とは単に神を仰ぎ尊ぶことではなく、己の罪を悔い改め、独り子キリストをこの世に賜る愛を受けとめることである。神はそのことを忍耐して待っておられる。実に有難いことである」と。

 窪田は、確かに救い主を信じ受け入れている。そして、「その道一筋」であったのだ。

 「自分の救いの達成」(2:12)をするにも、「与えられた志を全うする」のにも守らなければものがある。「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(2:14-15)とある。

  まず、第一に、「いのちの言葉をかたく握ること」。救いのいのちに至る御言への絶対服従、つまり従順である。それだから、「つぶやかず疑わない」ことなのだ。

 第二は、「非難されることのない純真な者となり世の光になること」。そのためにも、「すべてのことを、つぶやかず疑わない」ことである。

  信仰の道一筋に生きて行こうとする時、常にまとわりついてくるのは、物事に対する不平、不満である。口からつぶやきが出てくる。 パウロは、この2章の前半で救いの達成を妨げる問題に対して、キリストを模範にするように記している(1-8節)。

 「そこで、あなたがたに、キリストにある勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と。

 主の従順に学ぶならば、私たちは自分の救いを達成することができるというのである。そして、同時にそのことによって主に向かって対座するので、イエスの光を受けて世の光として輝くことができる。これらは、別々の事柄ではなく表裏一体である。自分の救いを達成することは、決して自分を見つめているだけではできないことだ。この世の光としてこの世に主の光を反射することである。

  パウロは、最後の「キリストの日」について言及している。「キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したことがむだではなかったと誇ることができる」(16節)と。再臨のキリストの日こそ、私たちの救いが完成する日であり、私たちが世の光としての役割が終わる日である。パウロは、ピリピ教会の信者たちがそのような救いの達成に至ることを大きな喜びとしていたことであろう。「その道一筋に」。
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