題「聖め(きよめ)」マルコ1:40-45

 母の日は、1908年、米国のヴァージニア州で大統領により5月第二日曜日と制定された。ジャービス夫人が天に召された時、その娘が母に感謝して一輪のカーネーションの花を捧げたことに端を発している。それ以来、赤いカーネーションは、「母への愛」を表わし、健在の母に贈り、白いカーネーションは、「母への感謝と愛情」を表わし、召された母に贈られるようになった。皆さんも、それぞれの母の日を迎えていることであろう。この記念の時に、ある麗しい出来事をご紹介したい。

 米国のある所に貧乏な母親がいた。夫が早く亡くなり、一人息子があるばかりで、お金も財産も他の人と比べるなら実に貧しい家であった。彼女は、近所の人たちの洗濯や裁縫をして暮らしを立てていた。その中で子どもを育てたのだから、どんなに大変であったことだろうか。しかし、母親は神を信じる信仰があった。彼女はいろいろな苦難を乗り越えながら、祈りつつ息子を育てあげた。彼は神の愛と母の愛を受けて、すくすくと成長していったのである。

 息子は母親の苦労を思い一生懸命努力を積み重ねて勉強して奨学金を得て大学にも進むことができた。彼は優秀であり、やがて首席で卒業することになった。加えて、卒業生を代表して卒業演説をすることも決まった。

  「お母さん、いよいよ卒業の日がきました。明日はぜひ卒業式に出席してください」。しかし、母親には、そのような場に着ていく着物がなかった。彼女は寂しそうにこう答えた。「せっかくだけど、私は家にいましょう。皆さんが立派にしていらっしゃるだろうから」と。「お母さん、卒業式には出てください。私が卒業できるのはあなたのおかげです。着物なんかどうでもいいことです。ぜひ来てください」。息子は心から願った。

 そこで、次の日母親は色あせた型の古い着物を着て息子と出かけた。やがて式が始まり、順番がきて息子の卒業演説になった。演説後、学長から大学の最も栄誉ある賞である金メダルが授けられた。その時、思わぬことが起こった。 息子はメダルを受け取るとすぐ壇を下りて、講堂の後ろに控えめに座っている母親の傍にかけて行き、こう言った。

 「お母さん、これはあなたのものです。あなたの愛と犠牲によって、今の私があるのです。お母さんありがとう」と。

 金メダルは、母の胸につけられ輝いた。息子は貧乏で粗末な身なりの小さな体の母を抱きしめていた。これを見た何百人もの来賓と学生は胸を打たれ、いつの間にか全員が立ち上がって涙とともに大拍手をもって二人を祝福したのである。この出来事は大学史に残る感動的一瞬となった。

 この学生こそ、後に米国第28代大統領になったトーマス・ウッドロー・ウィルソン(二期8年間大統領として務めた)である。彼は神の愛と母の愛を知る本当に幸福な人であったといえるだろう。 それは、まず彼の母がイエス・キリストによって救いを受けたところから始まったといえる。

 このマルコによる福音書に、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15)とあるが、救い主イエスさまは、その働きを進めるために弟子たちを選ばれた。その直後、「イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された」(1:34)とある。

 このようなイエスさまの御業は、福音(良き救いの知らせ)の告知であって単なる医療的奉仕ではなく、いろいろなものに縛られている状態から解放されたことを意味している。人間の存在と人生の救いのことである。私たちの信仰の源流である柘植不知人先生は、「人生には、数多くの問題が起こってくるが、大きく分ければ、生活の問題、病気の問題、罪の問題、死の問題の四大問題がある。救い主イエス・キリストは、これらの問題に解決と解放を与えてくださる」と言っておられる。ウィルソン大統領の母もそれを体験されたのだ。決して、信仰があることによって大金持ちになったり、偉くなった訳ではないが、小さな家庭が守られ、導かれ、慎ましい家庭生活でも心豊かな幸せであったのである。

 40節以下のツァラアト(らい病)の男も病と心がきよめられて救いを受けることができた(41,42節)。「『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』、イエスは深くあわれみ(五臓六腑深いところから揺さぶられる意)、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた。すると、ツァラアトが直ちに去って、その人はきよくなった」のである。彼は、肉体の病のみならず心まで癒されて救われたのである。

 主に救われて聖い人になる。これが本来の人間の姿なのだ。 人間は、創造主によって造られた存在であったが、その神から離れて神の幸せと栄光を失った。人間は罪人になり、その結果いろいろな負の影響を受けながら悶々と生きてきた。多くの場合は、この解決を求めても徹底的な解決を得ることなく虚しさだけが残ってしまう。しかし、この1章に登場する人々は、そのような悲惨な状態から救われたのである。

  ウィルソン大統領の母も人生の厳しい重荷を負う中においてイエスさまによって救われたのだ。

①人間の不幸の元凶がわかった。それは神から離れていること。そして、世を呪い人を呪う人生が的外れであることを知った。聖書では、罪のことをギリシャ語で「ハマルティア」というが、「的外れ」の意味があり、刑事上の犯罪ということよりも神との関係が崩れ神に背を向けて自分勝手に生きている態度と姿勢を示しているのである。これが不幸の原因であることを知ったのだ。そして、その罪を認めて悔い改めてキリストを救い主として信じたのである。悔い改めは、原語で「メタノイア」という。これは、人生の方向転換をして生き直すことである。母親は、そのようにした。

②救い主イエスを信じ自分の人生のすべての重荷を彼の元に下ろした。夫と死別したこと、息子と二人になってしまった現実はどうしようもない。その事実を受け入れ、過去と現在の重荷を主の元に下ろし、人生の深いところにイエスさまを迎えたのだ。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。環境が人を変えるというよりも、人の心が変われば環境が変化するのだ。母親は、心を軽くして息子を育てたのである。

③貧しい環境に身を置きながら慎ましい生活でも息子と小さなことに感謝しながら生きた。彼女にとって確かに一人息子は希望であり夢であったことであろう。この世の親は、そういう場合我が子にいいようのない精神的スレッシャーをかけるのではないだろうか。だが、この母親は思慮深く子には期待していてもそれを子に強く感じさせないで自然体でただ祈って見守っていた。そして、大学卒業の日、彼女は努力が報われある意味で成功者となった息子を母親として特別に誇るのではなく、やさしくうれしそうに見つめているだけであった。
 そこに神の御前にへりくだり、イエス・キリストを信じ頼りひたすらに生きてきた人の感謝と喜びがあった。まさに心が聖められた人の姿がここにあるのではないだろうか。

 さあ、私たちもこの日を迎え、そのように神さまでなければ与えることのできない心豊かな幸せを得た母として生涯を全うした人が実際にいたことを覚えたい。そして、私たちもそれに倣い心備えられるように祈りたいと思う。
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