| 断食と絶食とがある。断食とは、宗教的な意味合いや修行などの目的として、自発的に食を絶つこと。絶食は、病気や体調不良などで強制的に食事を摂れない状態にすることである。 当時、ユダヤ人たちは、断食を通常の習慣としていた。彼らの宗教では、一年を通じて一日だけ強制された断食の日があった。 その日、ユダヤ人は罪を告白し悔い改めて祈る。贖罪のための断食の日である。厳格なユダヤ人は、毎週二回断食する者もいたようであるが、本来の意味は軽視され形式的になされていたようである。それは、午前六時から午後六時まで続くが、その後には普通の食事をしっかりたらふく摂ることができた。 彼らの断食の理由は、信仰的な事柄ではなく、みせびらかしであった。断食の善行に対して人々の注意を引き誉められたいと考えていたのだ。 さて、ヨハネの弟子とパリサイ人とが、断食をしていたところ、関心を持った人々が主イエスに問うた。 「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」(18節)と。イエス・キリストの働きが力強く進められると社会への影響は大きなものがあった。そのことを快く思っていない人々にとっては、反対せざるを得なくなる。そこで、イエスの弟子たちが断食をしないことを取り立てて、いちゃもんをつけたのである。すると主は答えてこう言われた。 「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花嫁と一緒にいる間は、断食できない。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。だれも、真新しい布きれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(19-22節)と。 この二章は、律法学者やパリサイ人が主を非難した記録のまとめである。中風の人の罪を赦したことは、神を汚すことだと言い(主はどんな人でも招くお方である。四人の友人が中風の人を連れてきた時、集会を中断してまでも彼を受け入れた)、アルパヨの子レビのような汚れた取税人と交わりをするのはよくないと非難した(取税人のようにユダヤ人から嫌われた者にも近づく主イエスである。罪の赦しを宣言し神と人との関係を回復されるお方でもある)。さらには、ここで断食をしないのは、宗教生活を否定するものだと決めつけて責めた。 主は、そのような人々に対して真実な言葉を語られた。 これは、ユダヤの結婚式を例にあげた譬え話である。当時、新郎新婦は結婚式後ハネムーンに行く風習はなかった。彼らは家に留まって、一週間ほどその家で祝宴と喜びが続くのである。激しい労働の日々を思う時、結婚の週は人の生涯で最も楽しい週であった。この最高の宴に選ばれた友人たちが招かれていた。彼らは特別に招かれた「婚礼の式場の子どもたち」と呼ばれていた。そして、実際のラビの規則にも、「花婿につき添う者はすべて、すべての宗教上の慣例から解除される」と記されていた。結婚式に招待された来客はすべての断食から除外されていたのだ。 この譬え話の花婿とは、救い主イエス・キリストのことである。花嫁とそこに招かれているすべての人々のこのお方に対する特徴的な態度は、「喜び」である。主イエスは、私たちに喜びを与えられるお方だ。しかしながら、断食は、罪を悲しみ、人の死を悲しむ時にするものである。しかし、これが形式化すると意味をなくしてしまう。 主イエスは、断食することを否定しておられるのではないが、今はそのようなことをすべき時ではないのだ。救い主は、その悲しみを越えさせてくださる喜びの力を与えてくださる。 キリスト信仰に生きることは、ぶどう酒が喜びの象徴であるように喜びの信仰に生かされることである。教会暦において、受難節を守ることは大切なことであろう。しかし、その向こう側には、確かに復活の勝利がある。私たち教会は、いつまでも克己し、内省しながら過ごす訳にはいかない。うなだれた頭は勝利された主によってすでにもたげられた。 さらには、私たちとっての新しいぶどう酒である主イエスがおられる。主は、ユダヤ教の古い宗教制度に、規則と伝統で継ぎを当てるために来られたのではないことをこの譬えでお示しになられた。主の目的は、新しいものをもたらすことであった。不完全な旧約の宗教儀式や律法ではなく、すべての人々に「罪の赦しと神との和解」を差し出すためにこの世に来られたことを伝えることであった。 この福音の恵みと祝福に与る者に、主は継ぎはぎではなく、新しい生き方を与えてくださる。それは、主を信じることによってもたらされる大いなる救いの感動と喜びに満たされることである。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(第二コリント5:17)とある。 さて、劇団四季のミュージカルで聖書に関係する内容がいくつもあることを知り、たいへん興味深く思っている。「ジーザス・クライスト・スーパースター」だけではなく、「レ・ミゼラブル(ああ無情」)、「ドリーム・コート」、「キャッツ」もそうである。このキャッツは、猫たちの集団の物語なので人間の心深い物語の仕上げになっているとは思っていなかった。登場人物ならぬ猫たちの中に孤独な老猫グリザベラが出てくる。この猫は、薄幸の女マグダラのマリヤと重ねられている。クライマックスとして舞台の最後に、グリザベラが登場し名曲「メモリー」を歌う。作家によると、その詩の中に出て来る月の光は、聖書の福音を意味しているのだそうだ。そして、世の光であるイエス・キリストである。老猫は最後の最後に福音による新しい救いを得て、天に召されて行く。希望が示されて幕が下りるのだそうだ。 私たちもこの新しいぶどう酒によって新しくされていることを覚えて、心から主を誉め称えようではないか。ハレルヤ。 |
題「新しいぶどう酒」マルコ2:18-22
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