| 1974年、9月22日といえば、私の信仰がリバイブした記念日である。東京都板橋区にあった板橋北教会(現ベウラ教会)において開催された特別講師伊藤栄一師(徳島県の鴨島兄弟教会名誉牧師)による伝道集会の夜は、生涯忘れることができない転機となった。 その年、絵の道を志し予備校生として次年度の大学受験に備え勉強していた時期であったが、この集いに参加したことによって神に魂が捉えられて、幼い頃に与えられていたイエス・キリストへの信仰が回復したのだ。そればかりではなく、なぜか突然伝道者になることを決心して人生の方向転換をしてしまった。普通ならばあり得ないはずであるが、不思議に導かれて、1975年4月、関西聖書神学校に学ぶことが許されたのである。 母教会から壮行祈祷会をもって送り出された。その時に伊藤師が開いて下さった聖書が、マルコ3章13節から15節であった。「イエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」とある。 伊藤師は、「これから四年間、丸大神学生は、神学校のある塩屋の山(祈りの山)において、イエスさまの御許に置かれて伝道者として学びと訓練を受け整えられていくのです。全うできるようにお祈りしましょう」、と語り祈ってくださった。その夜のことを、今もはっきりと覚えている。 確かに、主が12弟子を選ばれたのは、ご自分のそばに置くためと、宣教のために遣わすためであった。15節の「悪霊を追い出す権威を持たせる」とは、悪魔払いのことではなく、神の支配が人の心に及ぶことを意味している。 主は彼らをそのような神の御業に間に合う器とするために山に登り夜を徹して祈られたのである(ルカ6:12,13)。「イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し」。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)の御言と合わせて読む時、主の憐れみ深さに心感じ入る。 さて、この12弟子グループを見るならば、なんとみすぼらしい頼りのない一群であったことだろう。彼らは無学のただの人たち(使徒4:13)、嫌われ者の取税人、短気な雷の子、後の裏切者たちだった(3:16-19)。しかし、主はそのような彼らをまず自分のそばに置くために召されたのだ。常識で考えるならば、尊い神のお仕事のための人材というものは優れていて有能な器ではないだろうか。普通ならばすぐにでも役立つ人々を選ぶべきではないだろうか。しかしながら、主はそのようにお考えではなかった(第一コリント1:26-31)。 「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵ある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。キリストの神に立てられ、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」とあるとおりだ。 この兄弟たちの中には、当然12弟子たちも入っていた。主はすべての事を承知の上で、足りない欠点と弱点とが多くある者たちを敢えて選ばれたのである(イザヤ55:8-9)。 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると、主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」とあり、神のご計画の実行のために、やはり神と人との思いが違っているのである。常識はずれの12弟子たちが特別に選ばれたということは、神の御心であり彼らを主の器として教え訓練を与え主の僕として整えるためであったのだ。 自分自身のことを思い返す時、12弟子たちよりもさらに愚鈍で未熟な存在であったことは間違いなかった。それにも拘わらず主は選んでくださったのだ。感謝感激である。しかも、さらに驚くべきことに、この主の交わりは、主の血族として似る者となるためでもあった(3:31-35)。 ある日、イエスの母と兄弟たちが来て、イエスを外に呼ばせた。群衆は、主を囲み話を聴いていた。「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言うと、主はすぐに「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」と問い返した。そして、「自分をとりかこんで、すわっている人々を見まして、言われた。『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹なのである』と語り、主イエスの周辺にいる信じ従う者たちは、主の血族以上の深き関係の神の家族であることを告げられた。 この中にあの弟子たちも含められているのである。そして、私たちクリスチャンもそこに入れられているのである。 父なる神に対して御子なるイエスは一人だけであるが、私たちにとって兄上のような存在である主イエスの十字架の死と復活によって、とりなされ私たち被造物に過ぎない者たちが、契約の子(養子)として父なる神に受け入れていただいていることに感動しない者はいない。何という恵みと特権であろうか。そして、私たちが神の家族の一人ひとりとして結びついているのである。それだから、教会ではお互いに「兄弟姉妹」と呼び合っているのだ。根拠なく、理由なく、意味なく兄弟姉妹なのではない。 さあ、私たちは、この尊い主にある神の交わりに身を置く時、「主と共にいる」ことができる。今年度の目標となっている「家族を救いへ」(使徒行伝16章31節)「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」の御言の実践のためにも、主のそばで学び訓練されて、主の証人として整えていただき用いられていこうではないか。 私たちは、益々主と共なる時を意識的に持ちたいものだ。「あなたの15分があなたの人生を変える。5分間、聖書を読み、5分間、それを黙想・霊想し、5分間、自らに適応して応答の祈りをする」、日ごとのデボーションである。そして、機会ある度に、成長の学びをすることを怠ることがないようにしよう。祈祷会や各種学び会に参加しようではないか。 |
題「主と共にいる」マルコ3:31-25
目次
