| 今日は、聖霊降臨日である。キリスト教会の誕生日でもある。 主イエスは、人類の十字架による贖いと救いの御業を成し遂げる前に、弟子たちに聖霊降臨の約束を告げられた。 「わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それ(助け主)をあなたがたにつかわそう」(ヨハネ16:7)とある。 この時、弟子たちはその意味することは理解できなかった。しかし、主の復活後40日間度々そのお姿を現し、昇天される前にもう一度聖霊降臨の約束を語られ、そのお方を待望することをお命じになられた。大切なことだから弟子たちに念を押されたのである。 「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:4,5)と。そして、「ただ、聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と語られ、何としても聖霊を待ち望むように促された。 その後、主は昇天され栄光の御座である父なる神の右に着座されたのである。さあ、これで主なる神の絶大なる人類に対する救いのご計画の準備は滞りなく成し遂げられた。 これからは、人間の側の責任である。神の約束の御言をどれだけ真剣に聴き受けとめて従っていくかが問われているのだ。 使徒行伝1章12節から15節まで箇所を読むと、11弟子たちとイエスの母マリヤと婦人たち、イエスの兄弟たちが、忠実に主イエスの御言に従って聖霊待望祈祷会をしている様子が記録されている。彼らは、主イエスが語られた御言に信仰をもって留まり従ったのである。そして、10日後のペンテコステの日(ユダヤ暦の五旬節・五十日目)に約束の聖霊は下られたのである。かくして世界のキリスト教会の歴史の幕は開いたのである。 さて、今朝マルコによる福音書4章を開いているが、ここで神の御言に留まることを教えられる。もし私たちが神の言を信じその内に留まるならば、神が用意しておられる良きものに間違いなく与ることができる。 主は、ここで群衆に種まきの譬え話を語られた。3節から9節までは、普通種まきの譬えと呼ばれているお話。14節から20節までは、その説明と解き明かしである。着目点は、蒔かれた種がちゃんと実を結ぶためにはお話の相違点を知ることだ。 それは御言を聞く人の態度によるのだと主は教えられた。道ばた(よく考えようとしない人)、石地(うわっすべりの態度の人)、いばらの中(世俗的な人)、良い地(深く考え、御言を受け入れ、それに従おうとする人)、それぞれの態度によってその結果が異なってくるのだ。 大切な態度は、聴く姿勢である。打てば響くという自分の心の反響版を整えることだ。 それは、御言を受けとめる心を備えることである。そうするならば、「また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」(4:20)とあるとおりだ。神の御言に留まり、聴く姿勢を四つあげておこう。 ①聖書を神の言として信じること。 ②聖書を自分に語られている言葉として受けとめること。 ③自分の真の姿をお示しくださいと祈って読むこと。 ④これからの人生を自分がどう生きなければならないか教えていただきたいと願いながら読むこと。 主イエスの救いも約束の聖霊の満たしも自分のものとするためには、その根拠になる聖書の御言を信じなければならない。神の約束の御言の中に自分自身を委ねて任せて留まることだ。そして、示されたように従ってやってみることだ。 「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである」(ヤコブ1:22,23)。 御言は、聖霊と共に働き、鏡のように、人の真相を示し、罪を悟らせる。神の真理、良きことを教えてくださる。その御言を信じて実行してみることだ。その時、神の命が我がうちに流れ下るのである。 「その方(聖霊)が来られると、世間の人に誤りを認めさせます。罪、心の正しさ、神との正しい関係、さばきからの救い、といったことで、連中はまるで考え違いをしているのです。まず罪とは、ずばり言って、わたしを信じないことです。正しい心を持ち、神と正しい関係を結べるのは、わたしが父のもとに行き、もはやわたしを見なくなるからです。さばきから救われるのは、この世の支配者がすでにさばかれたからです」(ヨハネ16:8-10) |
題「御言に留まる」マルコ4:1-20
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