題「必要な祈り」マルコ9:1-29

 今朝は、信仰の祈りについて学びたい。「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」(1節)とある。これは、群衆の中で主が語られた言葉である。主は、キリストの復活と聖霊降臨により教会が誕生するまでは、死なない者がいることを述べられた。すなわち、弟子たちのことである。その6日後に、主は、ペテロ、ヤコブとヨハネを連れてヘルモン山に登られた。そこで、「神の国の到来」の前触れを弟子たちに見せられた。それが変貌山の出来事である。

 この素晴らしい主の栄光が示されていた時、下の谷間では不信仰な時代を表わすように、弟子たちが醜態を演じていたのである。17節以下を見ると、一人の父親が、イエスの評判を聞いて、「口をきけなくする霊につかれている」(症状としては、てんかんのようであった)息子を癒して欲しいと願い出た。ところが、そこにいた9人の弟子たちの誰もがその息子を直すことができなかった(17,18節)。「群衆のひとりが答えた、『先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした』。」そこで、それを好機とばかり律法学者たちがやってきて、議論をふっかけてきたのだ(14節)。嫌らしい連中ここにあり。「律法学者たちが彼ら(弟子たち)と論じ合っていた」。

 お偉い先生方である律法学者たちにとって病気の息子のことよりイエスと弟子たちを批判し貶める方が大事なのである。ここに当時のユダヤの宗教者の偽善性がよく表れている。とにかく、弟子たちのこの失敗は、イエスの御名を傷つけてしまった。「弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」(18節)とある。

 そこで、主は「ああ、なんという不信仰(信仰のない)な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒に(相手をして)おられようか。いつまで、あなたがたに我慢できようか」(19節)と言われた。

 もう少しでイエスはおられなくなるのだ(十字架の死と復活と昇天の意)。弟子たちは地上に残されることになる。それが目の前に近づいている。それにも拘わらず、この体たらく。主はあきれ果てておられるのである。私たちも他人事ではない。

 しかし、主は、「その子をわたしの所に連れてきなさい」(19節b)と言われた。暗雲覆われるただ中、世の光であるお方が御姿で照らされる。20節から22節からのところで、人々の様子、父親の複雑な心境。そして、最後の悪霊の無駄な抵抗を見る。

 主は名医のごとく父親に問診をするような一言葉をやさしく語られると、父親は息子が幼い頃から度々死にそうになったことを告げた(21,22節)。「『いつごろから、こんなになったのか』と尋ねられると、父親は答えた、『幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中に、水の中に投げ入れて、殺そうとしました』」。そして、「できますれば、わたしどもをあわれんで助けてください」と力なく控えめに申し出た。だがそれは不信仰の告白でもあった。

 この父親の言葉は、1章40節から42節のツァラアト(元の訳・らい病)の男の信仰とは異なる。彼は、「わたしがきよくなることは、あなたの御心でしょう」と主を信じて求めた。そのことのゆえに、主は、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われたのである。彼は信仰によって癒されたのだ。この信仰が父親にはなかった。

 イエスは、父親に対して、「もしできれば、と言うのか。信じる者には、どんな事でもできる」(23節)と彼の本音を問われた。この時、彼は大きな衝撃を受けたに違いない。混沌とした心の黒雲を主の一言葉で吹き払われて、「父親はすぐに叫んで言った。『信じます。不信仰なわたしを、助けてください』」と。

 主イエスは、私たちのことを両手を広げて招かれるお方である。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのところにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)とあるとおりだ。憚らずこの招きに応じることが信仰である。主を信じて従うことである。主にすべてを委ねることである。

 わたしには、できないが、主にはできるという信仰のことである。この信仰が弟子たちにはなかったのだ。弟子たちは自分でできると思っていた。自分の霊的能力、自分のこれまでの経験や信仰を信じていたのだ。これは、主の僕としては、決定的な弱点であり欠落点であった。28節、29節で、主は、弟子たちがどうして悪霊を追い出させなかったのかというと、神を信じる生きた祈りがなかったからであることをお示しになられた。「家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした。『わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか』。すると、イエスは言われた、『このたぐい(種類のもの)は、祈(神から受ける力)によらなければ、どうしても追い出すことはできない』。」この祈りこそ必要なのである。

 「彼は、いつも(常に)生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、(徹底的に、完全に、申し分なく、決定的に、とこしえに変わることなく)いつも救うことができる」(ヘブル7:25)。「御霊みずから、・・わたしたちのために(嘆願して)とりなしてくださるからである」(ロマ8:26)。

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