今日は、「神を愛する」というある意味でとても難しく思えるテーマについてご一緒に考えてみたいと思う。
先回、私たちは、同じユダヤ教であってもパリサイ派とサドカイ派とでは、律法の解釈においても随分異なっていることを見てきた。復活や死後の世界についても見解が違っていた。
日本の仏教でも宗派で考え方が違っている。一般的な日本人は、仏教では地獄極楽を信じているように思っているかもしれないが、本当はそうではない。昔、有名な天台宗の大僧正であり、政治家、小説家の今東光氏が人生相談を担当していたことがあった。ある医師が臨床医として多くの患者を看取る中で死後の世界について悩み込み相談した。
「和尚、死後の世界はあるのですか」と。すると今氏がこう答えたという。「ぶっとばすぞ!」と。それは、そんな難しい答えられない質問をするな。わしもわからない」という意味であったそうだ。このように、明確な真理の光がないと難しい問題は答えを導き出すことができないものだ。
さて、ユダヤ教において、学者たちはラビ(教師)の学校でしばしば難しい議論をしていた。それは、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものか」ということであった。そこで一人の律法学者がイエスの元に来てそのテーマについて質問した。
主は、その答えとして、二つの大きな戒めをとりあげてこれを一つにされた。
「第一のいましめはこれである。『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』これより大事ないましめは、ほかにない」(29-31節)と。
聖書全体のメッセージをまとめるならば、「三つの愛に生きる」ことだ、と言われたのだ(マタイ22:40)。「これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」、「ほかのすべての戒めと預言者たちの命令も、この二つから出ています」(LB)と。
1.神をすること。2.自分を愛すること。3.隣人を愛すること。イエスによるこのまとめは、倫理道徳の教えではなく、人生の目的そのものであることを示しておられる。これこそ、人間の幸せな人生であり、人生の意味であり、目的なのである。
まず、私たちが神を愛する前に自分を愛さなければならない。自分を愛するとは、他人と比べてもし劣等感に陥るとするならばそれを捨てることだ。負の要素により自分自身をそのまま受容できない状態から自由になることである。しかし、それがなかなか難しいのである。皆自分の中にきらいな部分があって悩んでいる。これがなかったらどんなによいのに。あれさえ無しにできたら、解消することができたらどんなによいだろうか、と。外見から見てどんなに強そうでも、美しくても、他人が聞けば驚くような贅沢な悩みを持って苦しんでいる人もいるものだ。
また優越感が人の弱点になることもある。そういう人はいつ自分より優れた他者が登場するかわからないので不安なのだ。もし自分よりも優れた人が出てくるならば、その瞬間その人は自分より上の人の下になるわけである。気が気はでない。以前、尊い職業として医師の仕事をしているが、自分の卒業した大学の偏差値レベルを気にして、それよりか上の大学卒の医師にはあまり会いたくないという話を聞いたことがある。自分の卒業した大学名をその人に問われると嫌だからである。優れた人は優れた人で悩みがあるようだ。
しかし、心配はない。大切なことは、私たちの存在証明者の創造者である神が、この私をどのようにごらんになり評価をしておられるかということである。
神は、私たちをその独り子イエス・キリストをこの世に与えるほどに愛しておられる。この事実により誰が自分のことについて何を言おうが、神の御目による自己受容ができるのだ。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。これは、自己評価、自分の価値の規準をこの世の人間に求めるのではなく、根拠を王の王、主の主である創造者に見つけることなのである。こんな安心できる拠り所は他にない。
第二番目は、隣人を愛することである。よく考えると自分だけのために生きる人生は寂しいものだと思う。そこには人と人との温かい交わりによる喜びも充実感もない。孤独な自分がドーンとひとり存在するだけだ。ある人は自分のことだけで精一杯だ、と言われるかもしれないが、「自分を愛するように隣人を愛する。自分を受け入れるように隣人を受け入れる。自分を幸福にするように隣人を幸福にする」。そのためには、必ず神の愛の助けがある。神の愛を受けて自分を愛することを学んだ人は、隣人をも愛する者とされるのだ。
米国第16代大統領となったアブラハム・リンカーン(1809年-1865年)が、まだ幼い時のことである。彼の家は貧しかった。小さな丸太小屋に住み、着たきりすずめのシカ皮の下着のまま、わら布団に寝転がるような生活をしていた。けれども、母のナンシーは、そんな貧しさに負けないで、人間にとって一番必要なものは物質ではないことを、まだ幼い、二人の姉弟に教えてきた。母は、神の愛に心満たされていたのである。リンカーンが10歳の時、彼の愛する母は、マラリヤに罹ってしまった。彼女は、いよいよ神の御元に召される時がきたことを悟った時、母は枕元にリンカーンと姉を招いた。病でやせ衰えた手で、リンカーンの手をとり、頭をなでながら、信仰深い母は言った。
「おまえがこれからもっとも大切にし、そして実行してもらいたいことがあります。これは、聖書の教えですが、お母さんの願いでもあります。神を信じなさい。そして正直に生きなさい。お父さんを助け、姉さんと仲良くし、隣人を愛しなさい」と。これを遺言として、母は彼女の信じる主の御元へ召されて行った。1818年(文政元年)10月5日、母35歳、姉のサラ12歳の時のことであった。このクリスチャンの母の存在と生き方により、人生の導きを得てリンカーンは、生涯隣人を愛する人として人々に仕えていったのだ。
第三は、神を愛することだ。よく聞く話でこんなことがある。親や大人に愛されたことなく成人になり結婚して子どもを得たあと、我が子をどのように愛してよいのかわからない、というのである。確かに自分が体験したことのないことを第三者に与えることはとても難しいと思われる。親の本能がそれをさせるという人もいるが、実際そのようにできないで家庭崩壊のケイスが世界にはたくさんある。
神を愛するとは、神を受け入れるところから始まる。それは、私たちを愛しておられる神の愛を知って、その愛をプレゼントを受けとるようにいただくことである。
自分自身が如何に尊くかけがえのない存在として神に愛されているか信じることである。その愛には神の証拠がある。それは、私たちの罪を赦し清め永遠の命を与えるほどの主の十字架の命がけの犠牲の愛だ。「主は、わたしたちのために命を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(第一ヨハネ3:16)。
その愛に留まり、その愛のエネルギーをもって、自分自身の心を神に抱きしめていただき、その心の温もりをもって、自分を愛し、隣人を愛し、そして、神を愛して生きていきたい。
