題「心強いイエス」ローマ8:31.32

 今日は、収穫感謝礼拝である。心から自然界の収穫の主に感謝したい。また合わせて幼児祝福式をもって子どもたちを祝福する機会を得て感謝である。ご来会の家族の方々もお越しいただき教会員一同心から歓迎したい。

 さて、多くの日本人は、昔から「イワシの頭も信心から」といって、どんなつまらないものでも、信じている人にとってはありがたいものとなるという意味の諺を信じている。つまり人にとって神仏などは何を信じていてもよいというのである。けれども、それは本当なのだろうか。

 たとえば電気の伝わっている鉄に触るならば、ピリピリと電気を感じるが、ただの鉄に触ってみても何の手ごたえもない。そのようにいくら一生懸命何かを信心していても、人を救う力がなければ何の効果も意味もない。ですから、真の信仰とは、一時の安易な気休めではなく、人間の心の奧にある深い問題や魂の渇きから生まれる崇高な願望に完全に応えるものでなければならないと思う。

  今も問いたいことは、現代人の常識として、なお多くの方々は、聖書の神さま、イエス・キリストのことを信じていても信じなくてもあまりたいした違いはないと考えているのだろうか。

 実は、聖書の神は、私たち人間の造り主である。Creatorなのである。人間が造った神、人間の宗教心が造った神ではない。人間を造ったお方は、造った存在である人間のことをよく知っておられる。もし人が壊れるならば治すこともできるし、人の様々な問題を解決することもできるし、人にとって必要なものが何であるのかも知り尽くしておられる。

 かつて、東京のミッションスクールの大学総長がこんなことを語っていた。「人間は生きることに対する真摯な態度、真の宗教性を持たなければならない」と。それは、三つの問いを自らにすることだろう。

 ①自分はこの世にどうして生まれたのか。両親の間に生まれたという生まれ方の仕組みではなく、生まれたことの意味
  を問う。

 ②生きることの本当の目的は何か。何のために勉強し、何のために仕事をし、何のために年老いていくのかを問う。
  自己存在の目的は何なのか。

 ③人間は死んでしまえば、後は何もないのか。どんな生き方をした人でも、死んでしまえば皆同じなのか。マザー・テ
  レサも麻原彰晃も死後は無になり、何の違いもないのか問う。

 これらの質問の答えを持つことは、人生を迷うことなく安心して生きることができるようになることである。その答えは、創造主が愛の意図と計画をもって一人一人をかけがえのない存在として造られたことを知ることからはじまる。それは決して偶然などではなく、確かな目的と意味があることを示している。わたしの創造者としてわたしのことを愛しておられる神がおられることを知り、明確な自己存在証明(アイデンティティー Identity)を認識すること。そして、そこから導き出される人の人生には、意味と目的があることを知ることだ。

 聖書は、人間がいつから迷子の羊のようになってしまったのかを記している。それは、人間が愛の神の傍から自分勝手に離れたことに遡る。所謂神話のようにいわれているエデンの失楽園での出来事がそれである。最初の人類の祖が神との愛の契約を自ら破棄したことによって、それ以来人間は神に背を向けて自由奔放に生きるようになった。その時から人間の内面には、原罪(作家三浦綾子氏のいう絶対零度の氷点)が生じて人間の不幸の元凶になってしまったというのである。

 このように、わたしたち人間は罪と悲しみと重荷を持つ者として、長い間神から離れた状態にあったのだ。けれども、「神は愛」なので創造主はそのような人間を見捨てることができず救おうとされた。そして、人間が真の親である神の御許に帰り、神と人との断絶状態から回復され素晴らしい人生を生きるようにしてくださったのだ。

 その手順は、まず、神が救い主イエス・キリストをこの世に与えられ(クリスマス)、全人類の原罪と罪過によって不幸であった者たちを救い出すために救いの道を開く必要があった。その具体的な方法は、人間の想像も及ばない神の方法であった。それは、神に反逆した全人類の原罪と罪過を赦し救うために、神の独り子がわたしたちの身代わりとなり十字架につき正義の神に裁かれなければならなかったのだ。人間社会でも法秩序の中で罪はきっちりと裁かれなければならないようにである。

 神は、全人類の罪の責任をわたしたちに求められたのではなく、我が子イエス・キリストに求められた。あの十字架の死は神から離れたわたしたちを神の側に取り戻すためであったのだ。これを罪からの贖いという。そして、キリストは死に勝利され復活によりすべての人々の罪を赦し救いの業を完成されたのである。それを神の救いの現実として信じ受け入れる者を神は救ってくださるのだ。難行苦行にあらず、善行にあらず、ただ信じることだけで救われるのである。

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。神の愛を信じ、命を賭けた救い主イエス・キリストを信じることによって、どんなに自分が価値ある者として愛されているのかわかる。そして、結果としてそのような自分に感謝し喜び、神を喜ぶ人生に変えられる。それは、神の栄光を顕す人生である。神によって造られた者としては、最高の神の作品としての幸せである。
 そして、一人の人の人生と使命が終わると神の御国である天国に召されていく。そこには、もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。すべてのことが過去のものとなり、人間にとって新しい人生のステージに入るのだ。

 これを福音(ゴスペル)という。本当に幸福な慰めであり励ましに満ちた人生そのものではないだろうか。しかし、そのような生き方を否定し排斥することもできる。たとえば、ボルテール(18世紀のフランスの哲学者 理神論・啓蒙自由主義)、ニーチェ(19世紀の哲学者 神は死んだと主張したニヒリズム、虚無の人)、マルクス(19世紀のドイツの哲学者 共産・社会主義思想)、ダーウィン(19世紀のイギリスの進化論・自然科学者)などがそうであった。

 彼らは聖書と神をバカにし嘲笑った。彼らは聖書が証しする神を認めず無神論者であったのだ。では、彼らの晩年はどうであったのであろうか。人生の勝利者になり得たであろうか。否、その終わりは絶望と恐怖と悲哀そのものであった。彼らの最後は、死の大きな力の前に何の術もなかった。但し、ダーウィンだけは、神に悔い改めて救われた、とも伝えられている。

 実は、2000年前のイエス・キリストは十字架で死に三日目に復活し、今も生きておられる。生きておられるので人の人生を守り導き救うことができるのである。思えば、人間には、人生の四大問題があるのでないだろうか。

 ①生活の問題。②病気の問題。③罪の問題。④死の問題。救い主は、それらの人間の必要を満たしてくださるお方なのである。

 そこで今朝の御言である。

 「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(ローマ8:31,32)。 この言葉は、聖書の神、天の父なる神と救い主イエス・キリストが私たちにとって、心強い救い主、助け主、導き手であることが記されている。

 別の聖書ではわかり易くこのように訳されている。「こんなすばらしい恵みに対して、いったい何と言ったらよいでしょう。神さまが味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。神さまは私たちのために、たった一人の息子をさえ惜しまずに、死に渡してしまわれたほどのお方ですから、ほかのすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか」(LB)と。

 このように、私たちにとって頼れるお方、当てになるお方は、どこを探してもおられないと確信する。 ぜひこの心強い神さま、イエスさまを体験していただきたい。
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