| 現代の幸福観は、過去の幸福観に比べて大きく変化しているようだ。多様化、個別化していて、物質的な豊かさだけではなく精神的な充足や人間関係、自己実現といった要素が重んじられるようになっている。昔の戦前、戦中は、公の利益と国家への貢献をすることに価値があった。しかし、敗戦を経て戦後復興期、高度成長期は、物質的豊かさを追求していた。好景気のバブル経済期以降は、消費文化を享受し、仕事中心生活が主流ではあったが、バブルがはじけて、その頃から徐々に精神的豊かさや個人の多様な生き方を重視する傾向に移行してきたようである。 現代の幸せを構成する主な要素は、①身体的、精神的健康。②良好な人間関係。③生きがいや意味を見出すこと。④足ることを知り他者への貢献。⑤何かに没頭できるものを持つこと、などがあげられる。どれ一つとっても同意される人たちも多いのではないだろうか。今の時代は、確かにそれぞれが多様な幸福論を持って自分の良かれと思う道を歩むことを幸福と考えているのだろう。 では、聖書の提供している幸福はそのような類なのだろうか。イエスは、「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」(ヨハネ14:27)と語っておられる。そして、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:31)とあり、聖書は、この世が求める幸福ではなく、創造主である神ならではの人間の命に関わる幸福であることを教えている。 特にこのクリスマスシーズンにおいて、現代人は、どのような幸福を聖書から読み取ることができるのだろうか。 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある。 ・「神は愛であること」。多くの場合、人間は自分が何者であるのかわからないため苦悩する。自己存在証明なく悶々と生物的に生きているだけでは、心底からの平安、喜び、感動もないだろう。自分がどこから来て、何のために生まれ、どこに向かって生きていくのか。 その問いに答えないままでは、どう生きてよいかわからない。この混乱の元凶は、人間が神によって造られたにもかかわらず、神に背を向け離れたことによる。このことを聖書は原罪(sin)という。 神は、このような罪人を探し出して救うために、たった一回受肉降誕(神が人となること)されてこの世界に来られた。それがクリスマスである。その歴史的事実に、偉大な愛があり、与えて惜しまない犠牲の愛(この世に我子を救い主として与えること)が証しされているのだ。この驚くべき神の愛をギリシャ語でアガペーという。神は、ユダヤ人と全世界の人々を救うためにひとり子イエス・キリストをプレゼントしてくださったのである。 ・「この愛はだれの心にも届く愛であること」。救い主は、ベツレヘムの家畜小屋(幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある。ルカ2:12)で生まれた。糞尿の悪臭漂う中、王の王、主の主がこの世に来られたのである。これは実に象徴的である。イエスは、私たちがどのような環境や境遇にあっても、どのような状況にあっても、それにとらわれることなく、一人のかけがえのない人として愛してくださる。神は、親子の愛、夫婦の愛、兄弟や友人の愛も及ばない、さらにもっと深い愛をもって御子を惜しまずに与えてくださったのである。 ・「神の愛は限りなく続く愛であること」。死ぬということは、だれにでも100%の確率で起こる。聖書は、人間が死ぬ運命にあるのは、罪を犯し神から離れた結果であることを告げている。「罪の支払う報酬は死である。ローマ6:23」。 罪は、その人の心を支配し奴隷にするだけではなく、やがて肉体が死ぬとき、その魂も永遠に滅んでしまう。それを良しとされなかった神は、そのように滅びゆく人間を救うために救い主をこの世に送り、十字架刑によって、全人類の罪の身代わりとして私たちのために裁いてくださったのである。 その死は私たちの罪の贖い(人間の罪を身代わりに買い取るの意)の死であったのだ。 イエスは、十字架上で「父よ、彼らをおゆるしてください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、私たちの仲保者(とりなし手)となったのだ。そして、完全に十字架という苦き杯を飲み干し死亡し墓に葬られ、そして、約束どおり死の力を打ち滅ぼし復活して永遠に生きるお方となられた。それは、彼を救い主と信じる者もキリストと共に永遠に生きる者とされたことを意味している。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25,26)。これは永遠に続く幸福である。 永遠の命に生きた人をご紹介したい。あるクリスチャン女性の人生に起こった出来事である。Tさんとしておこう。彼女は、42歳の若さで、ある病院のホスピス病棟で召された。彼女はかつて大学時代に永遠の命を求めてキリスト教会で求道し救われて信者になった。ところが、洗礼を受けたものの、その後種々の疑問や困難と出会ううちに徐々に教会から離れてしまった。やがて、幸せを求めて将来性のある、そして、外見的な魅力豊かなある男性と結婚するのだが、彼女の願いとは逆にその結婚によって益々不幸になってしまった。 夫は酒と遊びに明け暮れ、5000万円の借金地獄。おまけに子どもたちにまで暴力を振い家庭には何の望みもなかった。そんな苦労を背負いつつ懸命に生きていた彼女に、さらに大きな重荷と苦痛が加わった。悪性乳ガンが発見されたのだ。一年間に二度手術を受けるが、すでに手遅れで全身の骨にガン細胞に転移しており、医者から半年の命と宣告されてしまった。そのような厳しい現実の中でTさんの信仰は回復され、子どもたち三人の将来を思い命がけの祈りをささげた。「主よ、あと10年の命を下さい」と。それは悲鳴にも似た祈りであった。 そんな弱く小さな婦人をイエス・キリストは、支えられた。しかし、状況は何もよくならなかった。何と、実母が同じガンで死に、夫は新たに借金を残して、子どもたちを残して蒸発してしまった。けれども、彼女には神の慰めがあった。何もかも神の御手に委ねた。彼女は子どもたちの今後を考え宣教師の家庭に養子に出すことを決心した。そして、子どもたちの旅立つ日に、このような日記を書き残した。 「午前十一時過ぎ、子どもたちが旅立つ。次男が泣く。私の手のひらの宝石が三つ旅立つ。尊いと思うがゆえに旅立たせる。きっときっと、もう少し大きくなったら、このようにした母親の切り離した寂しさ、辛さ、それが愛するがゆえだったとわかってくれると信じて見送る。・・・・三人の子どもたちよ、幸せになって。これから、この末期ガンのホスピス唯一の生き残り、人呼んで『奇跡の人』の私、主の国に入るまで、一人でも多くの人に、主を知り、永遠の命の中に生きることを知らせるぞ・・・」。 Tさんは、永遠の命の確信を持ち、すべてのことを主イエスに委ねて精一杯生き抜いていかれた。確かに彼女の人生には闘いが多かった。しかし、神の命は彼女に勝利を与えられたのだと信じる。ハレルヤ。 |
題「幸せなクリスマス」ヨハネ3:16-21
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