題「マリヤの信仰」ルカ1:26-38

 1960年(昭和35年)のクリスマス、めぐみ幼稚園の年長組での聖劇(ページェント)に出た。役はイエスさまの養父ヨセフであった。今もその時の記念写真が残っているが、なぜかヨセフさんは落ち着きなくキョロキョロしている様子である。思い出すことは、マリヤを演じた女の子がかわいかったことである。つまりその魅力にとらわれてマリヤさんのことをチラッチラッと見ていたのだと思う。懐かしい思い出である。

  さて、クリスマスの主役がイエス・キリストであることはいうまでもない。けれども、聖母マリヤもよく注目されるのではないだろうか。カトリック教会にとって聖母は聖人聖女として特別視している。さらには、神秘化するためであろうか、19世紀からこれまでマリヤにまつわる66件の奇跡話があるそうだ。ファティマの奇跡、ルルドの奇跡については聞いたことがあるのではないだろうか。  

 確かに聖母マリヤは世界中で慕われ「マドンナ(わが淑女)」「ノートルダム(われらの淑女)」と呼ばれている。永遠に光を失わないかのように内面的な美女の中の美女として見られている。

 今朝は、主の母マリヤについて学びたい。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(1:28)とは、御使ガブリエルのマリヤに対する受胎告知の挨拶の言葉である。マリヤは、ナザレ村のダビデ家の出ではあるが、世は移り変わり今は落ちぶれの身となり、見る影もない貧しい田舎大工のヨセフのいいなずけになっていた。

 マリヤは、年もつりあわないヨセフと結婚してその顧みの下に生活しなければならないその後の人生が予想されていた。決して彼女は順境の人とはいえない。日々苦労を重ねながら一労働者の妻として、その日暮らしをしつつ一生を終えるぐらいのマリヤの運命だったのだと思われる。

 ところが、全能の神の御目が彼女に留まった。そして、驚くべき全人類救済の計画の実現の土台である御子イエスの受肉降誕(Incarnation)に関わる大役を務めるために、神に選ばれたのである。何という光栄な神の使命であったことだろう。マリヤは、処女として主の母となり、尊い神の御業に用いられたのである。そして、多くの人々の尊崇の的となり、後に本人としては、不本意であっただろうが、多くの人々に礼拝されるようになってしまった。

  さて、イエス・キリストの十字架の死と復活の後、主はすべての全人類の救いの御業を成し遂げて昇天された。使徒行伝1章14節、聖霊時代を告げる約束の聖霊降臨を待ち望む祈りの一団に参加して祈るマリヤのことが記録されているが、ペンテコステ以降、彼女は公の舞台から姿を消している。その秘かな行動がマリヤの本心であったと思う。自分は特別に人々から注目されて脚光を浴びるような存在ではなく、静かに祈りつつ使徒たちの働きを見守って余生を送りたいと願っていたに違いない。

 今日の聖書箇所でマリヤの信仰者としての特質をいくつか見ることができるのではないだろうか。

  1.生活のホーリネス。彼女は、突然の御使の訪問を受けた時、少しも取り乱した様子がない。落ち着いて、静かに、しとやかに御使に対応している。戸惑いはあるものの恐れと悔い改めもない。マリヤの平素の生活が見えてくる。彼女は、日ごとに聖い歩みをしていたのである。

 2.主の前の謙遜。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と御使の言葉を聞いた時、直ちに受けとめることができなかった。それは、主の前に、卑しい女(この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち世々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう。1:48)。飢えている者(飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。1:53)であることを知っており、主の「卑しい仕え女(つかえめ)共同訳」に過ぎない女がなぜ誉められるのか理解することができなかったのだ。

 そして、「この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた」(1:29)。謙遜とはへりくだろうとすることではなく、真の自分を知っていることである。小さな自分、空しい自分、何の誇るものがない自分を知っていて、それをありのまま認めている。それは、無邪気、単純、透明な魂である。

 3.信仰と服従。彼女に告知されたことを誰よりも信じられなかったのはマリヤ自身であったことだろう。自分が神であり救い主の母になるなどにわかに信じられるはずがない。「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしには、まだ夫がありませんのに」(1:34)とは、無理からぬことであろう。

 けれども、「神には、できないことはありません」(37節)と御使が告げた時、信仰をもって、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」(38節)と主の御旨に従う決心を表明したのである。それ以来、彼女は一貫してぶれることなくひとすじの主の道を歩んで行くのであった。婚約者ヨセフがマリヤが妊娠したことがわかった時、事情がわからず、彼は正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようとしていた(マタイ1:18)。

 しかし、マリヤは、ヨセフの誤解に対してひとことも弁解していない。神が彼女のために弁護してくださることを静かに待ち望んだ。人々の誤解のただ中にあっても、慌てず、騒がず、ひとことも弁解しないで、主が一切のことを明らかにしてくださることを信じたのである。そればかりではなく、マリヤの人生は、主イエスの十字架の元に立つその日まで、彼女の一生は苦難の連続であった。そのことが、予め示されていた。クリスマスの後の事、ヨセフとマリヤが赤子のイエスを生まれて八日が過ぎてエルサレムに上って行った。両親が幼な子を主なる神にささげるためであった。すると正しい信仰深い人シメオンと出会った。彼がイエスを腕に抱いて神をほめたたえて言った言葉に預言的意味が示されていた。

 「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」(2:34,35)と預言したシメオンの言葉はそのとおりに成就した。別訳で読むと、「シメオンは両親を祝福してから、マリヤに言いました。『剣があなたの胸を刺し通すでしょう。イスラエルの多くの人がこの子を信じようとしないで、滅びるからです。しかし、この子によって大きな喜びを受ける人も大ぜいいます。こうして、多くの人の隠れた思いがあばかれるのです』(LB)。

 御子イエス・キリストの十字架刑は、母マリヤの心を貫きとおしたのである。けれども、母マリヤは、けなげに忍び耐えて厳しい主の道に従ったのである。

 私たちの救い主の誕生のクリスマスの喜び、クリスマスの楽しみ、クリスマスのやすらぎ。それは、やがて三十三年半後、御子イエス・キリストの十字架の唯一の人類の救いの出来事に結びついていることを覚えたい。そして、それは一人の母の耐え難き身と心が引き裂かれる痛みの伴うものであったことを合わせて心に刻みたいものである。
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