題「平和と繁栄」ローマ15:1-3

 新年にあたり、「平和と繁栄」を願いつつ御言に聴いていこう。長年、人類は平和と繁栄を追及してきた。これは国家間、民族間、一対一においても、相互に深く関連していて一方がなければ他方の達成は難しい。

 昨年の2025年の国際情勢を振り返るならば、ウクライナ・ロシア戦争、ガザ地区紛争、中東の軍事衝突、アジア太平洋の地域緊張などがあり、多く人々の努力がなされたにも拘わらず事はたいへん複雑で困難を極めている。罪深いこの世において真の平和と繁栄は、終末時代の千年王国と新天新地が来るまでは全く皆無であることを思わされている。

 しかしながら、信仰的、霊的な意味において神の民とキリスト教会の人間関係では、素晴らしい世界を与えられているのではないだろうか。「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」(詩篇133:1)とある。これはよく知られている箇所であるが、神の民と教会の人間関係の素晴らしさを証ししているといえよう。

 この仲睦まじい、親密で、和気あいあいとした人間関係を妨げるものは何であろうか。それは、異なる所だらけのお互いのことを忘れ、他者のことを思いやることなく、自分だけ喜ばせようとするならば、大げさな話ではなく、私たちの人間関係は容易く壊されてしまう。

  さて、ローマ人への手紙は、1章から11章まではキリスト教の教理面が記されており、12章から16章までは、信仰生活の実践面が記されている。特に15章に至り相当の文字数を用い教会における一致の問題を取り扱い教えている。それは、一致の問題が今も昔も変わらない教会の重大な問題であるためである。

 パウロはこう語っている。「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(15:1-3)と。

 「強い者は、強くない者の弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせてはならない」とあるように、ここに教会の特徴がある。 教会は、自分を喜ばせることに終始しないで、弱い人の弱さを担い、その人たちにも喜んでもらえるような神の恵みを差し出す群れであるというのだ。

 パウロは、ここで「信仰の強い人々」のことを、「強い者」と呼んでいる。これは、「力のある人」のことである。一方、「信仰の弱い人々」のことを、「強くない者たち」と呼んでいる。 力のある強い人々は、力のない弱い人々よりも、「あることをする力を持っている人々」のことであろう。こういう人々が教会内にいると、強さのゆえに自分の物差しでものを言い、それを押し通そうとすると当然のように教会内に不和の問題が生じてくる。

  弱い者は、強い人々に置き去りにされたり、無視されたかのように思ってしまうからである。これは教会だけではなく、家庭でも、会社でも起こり得ることだ。 この世の中では、「強いか弱いか」「優れているかいないか」「できるかできないか」の二つの内のどちらかに組み入れられる。実に二元的である。正直誰であっても、どちらかというと弱いよりも強いが方がいいし、できないよりもできる方がいい。しかし、現実として心ならずも弱い者の側にいる人々はおられる。

 それゆえに、そういう方々のために、教会における強い者はそれを理解し受け容れ弱い者にお仕えするのである。2節を新改訳では、「私たち一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです」とある。 教会の一致、交わりは、皆が心を一つにし、声を合わせて、神の恵みと祝福の素晴らしさを知るところから始まる。キリストにある神の恵みを中心とした交わりとは、皆が十字架の福音(贖い・救い)に向かって個人的に対座し霊的な状態に置かれることである。 つまり、お互いが自分が赦されなければならない罪人であり、そのような者を主は憐れみをもって贖い救ってくださったことを常に自覚して神と人との前に遜っていることである。本当は誰ひとり高ぶることはできないはずである。

 ところが、いつしか自分自身のことがわからなくなてしまうのだ。「おおよそ御言を聞くだけの人(その人の内側にしっかりと御言が適用されその御言のいのちに生かされていない場合)は、ちょうど、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見るようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう(御言により自分の罪や至らなさを教えられ、一時は反省し、悔い改めもするが、すぐにそれを忘れてしまうこと)」(ヤコブ1:23,24)。

 昨年、「ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師」という衝撃的な題の映画が上映された。第二次世界大戦下、ナチスがユダヤ人迫害と教会を弾圧し圧政を進めていた最中、ドイツの牧師ディートリヒ・ボンヘッファー(1906年-1945年 39歳で殉教)は、国家の権力との闘争を展開しそれを貫いた。ナチス・ヒトラーの悪魔的策略と実行に対して抵抗運動を続けて処刑されるまでそれをやめなかった。そのボンヘッファーが、獄中に身を置きながら、姪の結婚式に際して本来の人間の生き方について手紙を送っている。そして、最後のところで・・・

 「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受けいれて、神の栄光をあらわすべきである」と記してあった。深く考えさせられる言葉である。

 「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会にしないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」(ガラテヤ5:13-15)。

 自我と自我のぶつかり合い、自己主張と自己主張の衝突。そこには、何も生まれない。十字架の自我の磔殺(ガラテヤ2:19,20)がなされない限り、徹底的に異なるお互いが一致したり和したりすることは決してできない。

 「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました(律法に従おうと努力しても、それは失敗以外にはないのです。律法によっては、神の恵みを受けることはできないことがわかりました)。私は(信仰により)キリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが(信仰により)私のうちに生きておられるのです。今私が肉(肉体をもって)において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自身を与えてくださった(十字架の贖いと救いの結果)、神の御子を信じる信仰(救いが与えられている)によるのです」。

 この一年、教会内外において、私たちが信仰的、霊的な平和と繁栄を願うならば、キリストを模範としようではないか。「キリストさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかった」(3節)。
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