題「複雑で厄介な心」ローマ12:15

 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とある。

 それでこそキリスト教会だ。まさにそのような人間関係があるところにこそ愛があるのだ。きっとそんな反応があるに違いない。 けれども、同時に著者パウロは難しいことを信者に勧めているなぁ、と腰が引けている読者もいるかもしれない。というのは、人間の心というものが元来厄介なものであるからである。

 たとえば他人の不幸に同情しながら、心のどこかで自分の優越を喜ぶ気持ちがもたげてきたり、他人の幸福を祝っている時にも、心の奥底で自分でもわからない小さな反感の気持ちが潜んでいたりする。そのような感情が知らないうちに他人を羨む気持ちや妬みの気持ちに発展していくことがあり得る。 羨ましい程度ならばいいが、制御できない嫉妬心に囚われる人は何をするかしれない。現在のネット社会で問題になっている顔の見えないSNS等で根拠のない悪口や誹謗中傷が拡散されることが起こっているが、これらは一瞬にして相手を不幸のどん底に陥れるもので、以ての外である。

 「妬む」という心は、他人の長所や幸福を喜ぶ代わりに、その人の不幸を願うとんでもない負の感情である。人間の心がこんなにも厄介であるゆえに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことなど不可能なこととして片づけてしまうこともあろう。では、このパウロの言葉は、単なる高く掲げた理想であり、あるいは実現不可能な幻想なのであろうか。そんなことは人間にとっては不可能なことなのであろうか。

 ところで、そのような弱く限界を背負っている教会のことを「愛の共同体」と呼ぶことがある。では教会には愛において優れた人々が集まっているので愛の共同体なのだろうか。そうではない。 どんな人も生まれながらわがままで、自分勝手でエゴイストの罪人である。しかし、信者は神の愛によって捕らえられ、神の愛を体験することによって、罪人である者が愛の人に変えられるのだ。こうして、教会は愛の共同体になるのである。キリストが愛の共同体を造られたと言えるのではないだろうか。しかし、信者は自動的に愛の人になれる訳ではない。

 ご存じのように、このローマ人への手紙の12章からは、キリスト教信仰の実践面が語られている。キリストの救いの福音を信じ、救いの恵みに与った者たちは、その結果として神に献身するよう導かれる。それは一度だけではなく日々我が身を主に捧げていく。神の愛と救いに応答して日毎に我が身をささげていくのである。
 
 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるのかを、わきまえ知るべきである」(1:1,2)とある。

 第二は、キリストのからだである教会に加えられた者は、与えられている賜物を用いて互いに仕え合うようになる。

 「わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の測りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数が多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互いに肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言し、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧めを、寄付する者は惜しみなく寄付し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をするべきである」(3-8節)。それは謙遜な態度を意味している。

 第三に、私たちは教会の交わりにおいて愛を表わすことができるようにされるのである。

 「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕えなさい、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもとなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」(9-14節)。
 このように愛こそがクリスチャン生活を特徴づけるものである。

 確かに「この愛」に生きることは、難しく思われるが、パウロはできないことを無理強いしているのではない。源泉になるのが、活ける水を与えられるキリストにある。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)とある。
 ペンテコステの日に約束の御霊が下り、教会はキリストの御霊である聖霊に満たされる祝福に与ることができた。このキリストの救いの命がクリスチャンに働く時に、主のご人格に触れ心満たされる時に、御業が起こるのである。

 さて、「喜んでいる人」とは、自分よりも分のよい人であり、「泣いている人」とは、自分よりも分の悪い人のことである。分の悪い人ならやり易く一緒になれると言う人は、その人のところまで下りて行って、一緒になろうとしているのではなく、自分は高い所にいて、ただ憐憫の情を投げかけているにしか過ぎないのではなかろうか。
 このような態度では、自分よりも分の良い人の所へ行くことはできない。 喜ぶ者の所まで一緒に行って喜び、泣く者の所まで下りて行って一緒に泣くことのできる人は、真に愛の人である。

 ずいぶん以前のことであるが、会社の友人の同僚に妬み心を持ったある女が、犯罪を犯してその友人の人生に取返しのつかないことをしてしまった。それは、「ミス青森硫酸事件」である。青森一のミスに選ばれた友人に嫉妬した女は、会社で隠し持っていた硫酸を彼女の顔にかけた。

 加害者となった女は、罪を認め刑に服したが、被害者は自分の人生を台無しにした友人を殺して自分も死のうと何度も思いつめていた。彼女は、大きな病院をいくつも治療のために回るが、度々の手術も空しく美しい顏は元に戻ることはなかった。身も心もズタズタにされ大きな傷を負ってしまったこの人が、教会に導かれてキリストの救いを受けるのだ。

 洗礼式のその日、牧師は、彼女に質問した。「あなたは、今洗礼を受けようとしておられます。その前に一つお尋ねいたします。イエスさまが十字架の上で自分を殺す人々を赦し、神さまの赦しを願い、とりなしの祈りをしたように、あなたも、あなたに酷いことをした加害者を赦しますか」と。数分、間があったが、ミス青森は、天を見上げて天使のような顔でこう言った。「私は、心から赦します」と。その意味することを知る見守る人々はみな涙した。

 彼女は、キリストの十字架を仰いで、自分の加害者を憎み続ける醜い罪を認め、神さまに赦しを乞い、深いところからの罪の赦しを体験した。その信仰によって、ミス青森は、他人の罪を赦す者と変えられていったのである。

 友人の出所の日、ミス青森は元同僚に会いに行ったそうである。二人は、その時、涙をもって和解し受け入れあったという。愛と赦しの奇跡である。これは、キリストによる奇跡だ。

 人は愛することにおいて失敗するものであるが、もしその人が罪を悔い改めてキリストを信じ心のうちに受け入れるならば、キリストの十字架の愛によって愛と赦しの人に変えられていく。顔の美しさを失ったミス青森ではあったが、その痛みと悲しみの体験を越えて心の美しさと愛と赦しの心を神さまからいただくことができたのである。ハレルヤ!!!
目次