題「神の種を蒔く」ピリピ2:4-5

 2025年度も残すところ後僅かとなった。新年度のために備える二カ月としたい。

 ピリピ教会は、パウロのヨーロッパ伝道で最初に建てられた教会である。第2伝道旅行の初期、AD51年頃に生み出された。この手紙は、それから10年後頃書かれたと思われる。その内容で、パウロが如何にピリピ教会を愛していたかがよくわかる。

 彼は、ピリピ教会の問題を察知し、この2章1節から11節において「一致の秘訣」を教え導いた。

 「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いになり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいている同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」(1-5節)。

 人間が存在するところどこでも問題がある。それは、人間が罪人であるからである。罪赦されたと言いながら、罪の残渣(ざんさ・残りかす、不要物の意)を持っている群れだからだ。確かに厄介なことである。

 エルサレム教会、コリント教会、ローマ教会でも当然のように問題はあった。そこで、ピリピ教会の愛による一致を願うパウロは、その敵である「党派心と虚栄」(3節)を避けるように勧めている。党派心と虚栄は、教会の一致と平和を乱す細菌やウィルスのようなものである。一人ひとりが自分の意見や主張に頑強に固執する時、そこに争いが起こる。自分が一番義しいとする自己義認で強く出る人は困ったものである。

  それでは、これらは信者が死ななければ治らないものなのだろうか。「・・・は死なななきゃ治らない」という俗諺(ぞくげん)があるが、そのようにこの類は改善不能なのか。呆れ、諦めるだけなのだろうか。そうではない。そこでパウロは、病原菌に侵された者たちが、そこから救われるために必要なものは何かを教示した。

 それは、「へりくだり」謙遜であることだ。

「おのおの自分のことばかり(利益)ではなく、他人のこと(利益のことも)も考えなさい(顧みなさい、見つめ関心を持つ)。キリストにあっていだいているのと同じ思い(謙虚な態度)を、あなたがたの間でも互に生かしなさい(抱きなさい、模範としなさい)」(2:4,5)とある。

 自分自身を低くする謙遜は、他の人々(教会の共同体)のために自分の権利を放棄し、感情的になったり激昂することから自分を守る。罪人はとかく傲慢な者たちである。福音書(マタイ7:1-5)での12弟子たちの互いの中に起こった「ハリチリ合戦」(自分のうちにある大きな梁《問題》を棚にあげて、他人の目にある小さな塵《ささいな問題》を大問題にして、あげつらう争いの意)は、悲劇を乗り越えて喜劇である。いくら神の子クリスチャンになったとしても、聖化の恵みに与ることがなければ、度し難い利己主義的な自我から解放されることはないことを思わされる。

 そのような者たちが、パウロが言うように、「自分のことばかりでなく、他人のことを考える」ことなどできるはずがない。そこで5節が重要になる。「あなたがたが、キリストのうちにある態度のように、互いの間にそれをとりなさい」(現代訳)と言うのだ。これは服従を前提にして語られている。解決するために他の法はないからである。聞き流したり、無視するならば何も起こらない。

 その態度とは、6節から8節にある。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべて事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」である。

 受肉降誕された主を見.ることである。
 ・永遠の神が有限の世界に来られた。・・・驚くべきことである。
 ・創造主が人になられた。・・・驚くべきことである。
 ・絶対者が相対的な世界に入って来られた。・・・驚くべきことである。
 ・神が神であるまま、その特権を放棄された。・・・驚くべきことである。
 ・いやしい人間の姿になられたのみならず、その上仕える者となられた。・・・驚くべきことである。

 これ以上のへりくだりがあるだろうか。しかも恥辱の極みである十字架の死に至るまで、従順であられた。

 これこそが、「キリストの態度」である。 これは、クリスチャンだけに対する模倣であろう。信仰のない人には全く無意味である。私たちは、信仰を持つ者としてキリストに学ぶべきである。教会は、そのかしらであるキリストにならい、キリストにふさわしくあるよう、キリストの態度を見つめ、それを自分のものとなるように、主に聖霊の助けにより祈り求めていく者にさせていただこうではないか。これは御霊に促されて決心しなければできない重要な課題である。

  さて、今年の節分は、2月3日(火)である。節分の定番のかけ声は、「鬼は外!福はうち!」であるが、ある人が、「福はうち!外も福!」と叫んでみてはどうか、と言ったそうだ。

  米国第16代大統領リンカーンは、そのようなクリスチャンであった。

 彼の名言の一つに、「花の種を蒔く人生」がある。

 「私がいつ死ぬにせよ、私を最もよく知る人々から、こう言われたい。私はアザミ(雑草)を抜き取り、花が咲くと思う場所に花を植えたような人であった」《神の種を蒔くことによって、復讐ではなく、寛容。希望を育てること》と。また「私たちは、社会の抱擁(包容力)の中にあまりに多くの棘を植え、耕すことを避けるべきである」《彼は社会にも調和と平和を願っていた》。

 リンカーンは、人生においてたいへん苦労された人物であるが、福音をよく理解しそれを体現したクリスチャンであったと思う。彼は、キリスト・イエスの心をわが心とし(キリスト・イエスの心を心とせよ。文語訳 5節)平和を生み出すピースメーカーとして、その生涯を全うした。お互いにとってたった一回の人生、私たちの人生の終わりはどうか。トラブルメーカーで終わってはならないと思う。あなたは、今日のみ言葉にどう向き合うのだろうか。
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