| 今年も明日9月18日(月)、国民の祝日である「敬老の日」が祝われる。日本の祝日法によると「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」とある。趣旨を理解し心を込めてそのとおり行えば意義もあるだろうが、そうでない場合もあろう。ある方がぼやいておられたが、「確かに老人に対する労いや慰安の行事もあるが、一方でこの祝日に若い者や家人が外出して楽しみ、その留守番役に老人が当たるので嫌だ」と。また、「せめてこの日だけと思って電車に乗って外出するが、相変わらず車内で股を大きく開き、その前に老人が立っていても、平然としている若い男女を見ていると、こんな特定の日などない方がいいのにと思ったりする」と言われていた。なるほどと頷いてしまうのは私だけであろうか。 こういうお話を聞くと周辺の者たちもはっと気づいて反省させられるのかもしれない。ご老人の方々のことを思うと、齢とともに心身が弱るのは自然であり、老いてなお元気だ、と言われても確かに限界はあるものだ。数日前、今年の日本の最高齢者の116歳の女性の方が紹介されていたが、ポケットモンスターのぬいぐるみを抱いて幼子のようなお姿であった。何か複雑な心境にもなる。おそらく、現代の若い者たちは自らがやがて老いることなど考えていないだろう。実際自分が齢を重ねてはじめてその大変さがわかるのである。これは他人事ではない。人はご高齢者に対して、常々から想像力と共感力を高め感性を育てたいものである。 「花の散るごとく葉の落ちるごとく。わたしには親しかったかの人々は、ひとりひとり相続いて逝ってしまった。わたしもまた、かの人々と同じようにその後を追うべき時の、すでに甚だしく遅くないことを知っている。晴れわたった今日の天気にわたしは、かの人々の墓を掃除に行こう。落ち葉はわたしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋め尽くしているだろう」という言葉をある本で読んだことがあった。何とも切ないご老人の文章である。 随分以前に大阪の一人の老人が自死を遂げた。遺言「家もなく 妻もなく子もなく能もなし ぜにもなくなり ハイさようなら」 ご遺体は誰も引き取る者がなく区役所で遺骨となったようだ。丁寧に楷書で書かれた歌。上品に分けられた白髪、身につけていた物から育ちの良さが伺われた。おそらく、ある時から次々の不幸が続き、放浪とその日暮らしの生活。気がついたら、すでに希望もない身の上。ついに死を決意したのであろう。散り果てたその後はあまりにも、悲しく、憐れな人の一生であった。 もしその晩年が、どんなに恵まれてこの世的に幸福であったとしても、その人もまた散る人である。刈り取りの秋を迎えているが、人生における刈り取りを考えた時、私たちは何の種を蒔き刈り取りをするのであろうか。私たちは何としても神を信じる信仰が益々必要である。 イザヤ43章は、創造主である神がイスラエルを贖い出されることが記されている。42章では、背信の民イスラエルが、神の呼びかけにも拘わらず、不信のままに心を頑なにし、神の裁きの下に置かれ捕囚の辱めを受けることが語られていたが、ここでは、英語訳でBut now(しかし今)とあり、神の怒りに対照的に神は創造者としてご顕現されて、贖いの神、親がその子を呼ぶように、私たちの名を呼んでご自身のものとして愛してくださることが表明されている。慰めのメッセージが伝えられる(1-7節)。 神はご自身の栄光のためにイスラエルを選ばれたが、この民はうなじが固く神に対して絶えず不従順であった。それでもなお彼らは神の民であり、神は彼らのあらゆる罪と苦痛を通して働き、全世界に対して神ご自身が、彼のみ神であることを示そうとしておられるのである。驚くべきことは、神は直接的にイスラエルに向かって、そして、私たちクリスチャンに対して名を呼ばれるのである。 それは特に親しい関係を表わし、その特性が「高価で尊い」ことを知る。またご自分の所有であることを表明することでもある。私たちはその意味を知って尻込みするかもしれないが、新約時代に成し遂げてくださったイエス・キリストの十字架の贖いと救いの御業を思う時、我が身をささげることしかできなくなるのではないだろうか。それほどに、神の子が命を賭けて犠牲を払ってくださったことは何にも代えがたいことである。 「献身」とは、要するに神に「返身」することであろう。もともと神の栄光の証として造られている存在であるお互いであるが、名前が呼ばれたことによって、その応答として自身が神のものであることを意識して主権を神にお返しするのである。私たちは、神のものであるから神の栄光を顕す者なのである。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(第一コリント6:20)とあるとおりである。 ご高齢者の兄弟姉妹は、これまで生きてこられた年月だけ、たいへんな困難による苦しみ、悲しみ、痛み、ご苦労を多く積み重ねてこられたのではないだろうかと思う。しかし、2節にある「わたしはあなたと共におる」と言われていることがお互いの心に刻まれる時、人生のどんな災難や禍も乗り越えていくことができる。このように護られる約束があるということは、神が贖われた者を御名のゆえに「宝の民」としてくださるからである。3節にあるように神はどのような犠牲を払っても、私たち信じる者たちを「高価で尊い者」と愛してくださるというのである。その恵みは世の終わりまで変えられることはない。「恐れるな」(1,5節)と、二度繰り返して信仰者を鼓舞しておられることを受けとめたい。 さあ、臨在信仰(神が共におられる)をもって与えられているこれからの人生を信仰によって全うしていこうではないか。孤独感、閉塞感、寂しさ、虚しさなどから、主が共におられることを信じることによって勝利しようではないか。心からそのことを願いお祈りしたい。 「我見て、汝を宝とし、又我汝を愛す」(イザヤ43:4 文語訳) 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(同 新改訳) |
題「高価で尊い人」イザヤ43:4-5
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