題「人生の四季」伝道の書3:1-11

 「人生の四季」といえば、スイスの精神科医、ポール・トゥルニエ氏(1898年~1986年)のことを思い出す。彼は、クリスチャンとして88歳で天に召されたのであるが、その講演・執筆活動によって世界の多くの方々に影響を与えてきた。そして、日本において今もその著書は読まれ続けている。

 トゥルニエ氏は、その当時、人生80年を20年ずつに分類して、春・夏・秋・冬として捉えたのである。人生の一生の区分としてたいへん興味深いと思われた。現在ならば人生100年と言われているので、もう少し長めに区分するのだろう。
 しかし、ある方は、医師が人生をそのような分け方にすることに疑問を感じるかもしれない。まず自然界では毎年同じ季節が繰り返される。冬の後には必ず春がくる。
 ところが人間の一生の四季ということになると、一人の人間の死をもって終わる一回限りの経過について語ることしかできない。自然現象の成り行きと人間の生涯を同様なものと考えるのは、無理があるのではないか、と言われるのである。

 確かに人間の生涯では、自然現象と違って夏の人生において冬を体験するかもしれないし、冬の人生において春のような体験をするかもしれない。トゥルニエ氏も当然そのことはわかっておられる。人間の生涯には、秋にさえも春がくることがある、と言う。それこそ人間を人間たらしめる所以であるとも語っている。ですから、彼は人生を自然現象と同じように捉えているのではなく、人間の生涯は絶え間ない発展の途上にあり、人生には誰もが必ず経ていかなければならない様々な「時期」があって、そのそれぞれの「時期」ごとに神の計画が定められていることをクリスチャンとして「四季」を「人生」に重ねて例えているのであろう。私たちにとってお互いの幸いな人生のために、場当たり的に人生を捉えるよりか、一つの信仰的哲学をもって人生を全体像として見ることの方が有益ではないだろうか。

 春とは、準備の時である。種まき、育成、力を蓄える時、夏の季節の準備をする時として捉えることができよう。幼児期、少年少女期、子どもたちは、将来、未来に向けて大きな憧れを持ち胸膨らませながら日々切磋琢磨しながら歩んでいくのであろう。ある人には、二人の息子さんがおられ我が子のために二つのことを身につけさせることに心がけたと言っておられた。一つは健康な体。もう一つは教育。どうやらこの二つのものを二人とも身につけて、現在立派な社会人となり、クリスチャン家庭をそれぞれ築いている。しかし、今日子どもたちが生きるための必要な物質的なものはこの世に溢れていると思われるが、逆に精神的な部分(WHOでは霊的健康)を満たすものを本当に豊かに与えられて成長しているのだろうか。そのように訝る社会的な問題が多すぎるように思われる。悲しきかな一部には、物質的な必要も満たされていない貧しい子どもたちも確かに存在している。そうなると夢を心に膨らませる夏の準備もできないのでないだろうか。

 夏は、太陽が照りつけ食欲旺盛な季節である。建設の時、繁茂の時、活動の時。若さいっぱいで頑張ってあっという間に過ぎるかもしれない。力をつけこれがあるならば何でもできるようにも思ってしまう時である。でもその限りではないだろう。日本において1970年代と今の時代を比較するとなかなか難しいかもしれない。昔は、特別な努力を積み重ねて学歴がなくても総理大臣になれた時代であった。けれども、今は大学を出ていても就職が困難であったり、青年が忠実に努力をしていてもそれだけで報われることが少ない。ワーキングプアとも呼ばれるようにもなった。若者たちが夢や希望を持って大胆に生きていくことが難しくなっている時代と言えるかもしれない。

 次は秋である。豊かに実った稲穂を刈り取る季節。これは収穫期といえるだろう。「秋高し」大気が澄み空が高くなったように見える秋。「錦秋」木々が紅葉して、錦の織物のように美しい秋。感動のゴールデン・エイジとして、それまで積み重ねてきたものをかたちとして残す。それがしっかりと実績として人生に刻まれるならば満足することができる。しかし、これも昔と今では異なるかもしれない。自分の描いた人生設計のように生きてきた人たちはよいが、そうではない方々にとっては夢破れた悲しい秋の季節を儚んでいるかもしれない。燃え尽き症候群。自信喪失。これも心の傷になる。

 その次が冬になる。今は70歳くらいから人生の冬と見るのだろうか。しかし、この季節は一般的な冬枯れの時を意味するものではないだろう。円熟の時を意味する。今年の敬老の日のニュースで全国の100歳以上の高齢者が、9万2000人。去年よりも1600人増加。中には、100歳以上で現役で仕事をしておられる方もある。それらの方々のご長寿を喜び心から祝福を祈りたい。しかしながら、そういうご高齢者ばかりではない。ご老人の孤独感。疎外感。喪失感などなど・・・。ある老人施設を経営しておられる方が話しておられた。「こういう場所に入れられて本人にとっていろいろな意味で本当に幸せなのか考えさせられる時がある」と。不本意ながら悲しい人生を終えなければならない方々もおられるのだ。

 さて、それぞれの「人生の四季」にある方々に聖書はどう語りかけているのだろうか。伝道の書の3章では、このように記されている。すべての出来事には、すでに定められた時期(季節)や時がある。人間のすべての営みはその定められた神の時の流れの中にある。人がそれを欲しようと欲しまいと、神によって導かれ歩んでいく。決して神に抗うことはできないことがわかる。しかし、これは私たちが運命論者になることではない。

 この一切の事柄の背後に神の御業があるのだ。創造主がどのようなお方であるのか、そのご性質、ご属性を真に私たちが知っているとすれば、たとい人間にとって好ましくない出来事に見えたとしても、信仰によって全く違って見えてくるのではないだろうか。

 ヨブの人生を思うならばたいへんな苦難と試練であったことを認めざるを得ない。あのような立派な義人がなぜあのような不幸と思われる出来事に連続して遭遇しなければならないのか。人間の常識と経験では決して理解することはできない。ヨブにとっての「なぜ」に対する答えは、「わからない」ということであった。伝道の書の著者の悩みもそこにあったのだ。神の御業があまりにも大きくて人間には理解し難いのである。信仰があっても自分の思うような人生にならないことがあり得るのである。

 そこで悩み込んでしまうのであるが、11節にはこうある。「神のなさることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなさるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」とある。神は人間の営みを御旨のままに定められた。しかしそれは、何もかも人間にわかることではない。確かに神は人間に理性を与え知性を与えられたが、それには限界があって神のなさる神秘についても全部理解することはできない。そこで、神は「永遠を思う思いを授けられた」のである。

 つまり、地上ではなく、やがて新天新地(神の国・天国)において、すべてのミステリーが解けていくことを信じて神に委ねお任せすることを求められたのである。それぞれの人生の四季にあって、起こってくる苦難や試練の一つひとつの出来事を何か思いがけない予想以外のことのように捉えるのではなく、「すべてのわざには時がある」とあるように神の御手のみ許しの中での事柄として受けとめて昇華させることが肝要である。

 これは、問題の先送りをして人間の内面の問題を無視するのではない。ヨブは、最終的に神からこのように言われた。「無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか」(ヨブ42:3)と。「ヨブよ、おまえはわたしの行っていることを全部わかっているつもりか。わたしのすべての計画を知っているとでもいうのか」と。これは、神がこう言われているのである。「人間にはわからないことがある。そのミステリーなことについては、わたしにすべて任せなさい。わたしは、最善をもってあなたを導くから。わたしはあなたに善だけを行うから。わたしを信頼しなさい」と語っておられるのである。

 ある方が、人の一生を飛行機に乗って旅行をすることにたとえた。離陸は、子どもの出生。上昇と水平飛行までは、嬰児期、幼児期、少年期、青年期。安全ベルトを着用しいざという時のために慎重に飛行する。危険から守るためにベルトは必要である。その間、好き勝手なことをしていたのでは安全は守られない。やがて安全が確認され安全ベルトのサインも消える。禁煙タイムのサインも消える。安定飛行に入る。しかし、それに満足してそのままいつまでも飛行機は飛び続けるのではない。いつか着陸態勢に入り、安全ベルトサインと禁煙サインも出る。それは危険性があるからだ。

 これを解き明かすと、人間は人生の行きつくところが天国でなければならない。地獄になんかに絶対行きたくない。そのために、おぎゃぁと生まれ出た時から死ぬ日まで、創造主の御手に守られ導かれ生かされ、最後の終着空港へ降り立たなければならない。安全ベルトはまさに神を信じる信仰といえるだろう。

 あなたも主のご真実を信じ、人生の四季のどこの時に身を置こうが安全ベルトである信仰によって生きていこうではないか。シャローム。
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