題「約束の聖霊」ルカ24:45-49,使徒行伝1:8

 「ペンテコステ」とは何か。ある人は、「ヘンテコな言葉だ」と言うが、それは、「第五十日」というギリシャ語である。キリストとの関係からいうと、復活の日から数えて五十日目である。使徒行伝1章3節によると復活された主は、40日に亘り各所でご顕現された。 地上における働きが完成したので、オリブ山から昇天されたのである(第三の天)。それから10日後に約束の聖霊が降られたのだ。

 「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力が授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(24:49)。使徒1章4節にも記されている。共に著者は医者のルカであった。

  弟子たちは、他の人々と一緒に聖霊待望祈祷会を開いた(使徒1:12-15)と。そこには、11弟子に加えて、イエスの母マリヤ、婦人たち、イエスの肉の兄弟たちが他の人々と共に集まり、120名ほどの熱心な祈りの一団が設けられた。 まず、弟子たちは、十字架以前にも主が語られた聖霊降臨のことを思い起こしたのではないだろうか(ヨハネ16:7-15)。

 聖霊は主イエスが去らなければ来られない。もし行けば遣わすと言われた。聖霊は、人々に罪と義とさばきを指し示し救いへと導かれる。真理の御霊、助け主である。そして、聖霊はキリストの栄光を現わし主と一体にさせ神との命の関係に導いてくださる。そのために主は聖霊を贈りものとして与えてくださると約束されたのである。他の者たちも皆同意し一緒に待ち望んでいたのだ。

  そこに集まる者たちは、もはや誰が一番偉いか、とか誰が一番失敗し罪を犯したとか、言い争いや責任転嫁をする者は一人もいなかった。皆が新しい出発をするために神の御前にへりくだり、跪いてただ祈っていたのである。「心を合わせて、ひたすら祈をしていた」(14節)。新改訳では、「いつも」という言葉がありこの祈祷会が一度だけではないことがわかる。彼らは何としても約束の聖霊の力を欲しいと願い求めていたのである。

 今日も、教会にとって最も必要なものは、皆が聖霊に満たされることである。そのためのプロセスとして、第一は「主の約束の言葉を信じること」である。第二は、「約束されたものは聖霊」であることだ。第三は、「上から力を受けるまで」とあるように、原語の「受けるまで」とは「着るまで」という意味があり着物のように着て自分のものとしてしまうことである。 そして、第四は、「都にとどまっていなさい」とあるように期待して求める心で祈りつつ待っていることである。

  これらの四つの聖霊待望を妨げるものは何か。やはり己(自我)であろう。

①約束されたものに関心を示さないのも己。
②聖霊の導きよりも自分が主導で何でもしたいのも己。
③得るまで着るまでの探究心が必要である。諦めてしまうのも己。
④待ち望みは忍耐と信仰が必要である。Z世代のタイムパフォーマンス(時間対効果)に問題を感じる。何でも短時間で効果を得ることを求める考え方は、待つことを効果が悪いと捉えるのではないだろうか。待たなければ体験できないことがある。待つためには神を信頼しないとできない。待ちたくない己に勝たなければ良きものを得ることはできない。

 この祈りの一団の特徴は、皆が悔い改めお互いに受け入れ合い支え合っていたことではないかと思っている。皆が己を十字架とともに葬り去ったのではないだろうか。 エルサレムは、主が十字架つけられた場所である。彼らにとって恥と失敗の都である。

 そこで罪を告白し悔い改め、十字架を仰ぎ、血潮のきよめを受け、祈り待っていた時、俄然約束の聖霊は降臨されたのである。 そして、あれほどユダヤ人を恐れていた弱者であった弟子たちは姿変わりを経て、大胆にキリストを証する聖霊に満たされた勇者となったのである。

 それはあの絶望の町エルサレムから始まった。私たちもそのようなところからスタートすることができることを信じようではないか。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)とあるとおりである。
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