題「解決の道」ピリピ4:4-9

 神の言葉である聖書は、不思議な書物である。聖書と初めて触れ合ったのは、幼少期であるが、自分の聖書を持つようになったのは、教会学校の一年生の頃であった。本格的に読むようになったのは、確かにクリスチャンになった18歳になってからだが、それでも6年間の教会学校で学んだ聖書知識は残っていた。

 思えばこれまでの約63年間聖書を読み続けてきたが、なぜ読み飽きてしまわなかったのであろうか。世界や日本の文学界に貢献してきた文豪と呼ばれる人たちの書き残した書物もそれなりに読者に様々な良き影響を与えてきたことだろう。けれども、私は何度も読みたいとは思わない。まさに聖書はこの世の書物の中で別格である。

 ある大学の神学部の教師が、「今でも聖書を読む度に新しい発見をし、新鮮な喜びを感じる。それは聖書を長く読み続けている人が共通して感じることかもしれない」と言っている。今回の聖書箇所もこれまで何度となく学んできたが、毎回同じメッセージではない。

 今朝はここに人生の諸問題に対する解決の道を導き出されたいと思う。

 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(6節)とある。「何も思いわずらわないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を、神に知っていただきなさい」(同 新改訳)

 この御言葉は、人生における全き解決の道を教えている。様々な人生の苦難や試練に対して自分だけで思い悩むのではなく、また当てにならない他者に救いを求めるのではなく、神に向かっての祈りの世界を持つことなのである。

 ①祈りの本質は、神との対話である。祈りの対象がはっきりしていて、私たちの存在証明であり根源である創造者である神に祈るのである。単なる空気の振動でも空しい独り言ではない。私たちと祈りによって交わってくださるお方を信じ頼って委ねて祈ることである。キリストにあって神の子とされている者の祈りである。主は弟子たちに「アバ・父よ」(天のお父さん)と呼ぶことを教えられた。子としての祈りである。何という恵みであり特権であろうか。パウロも、「あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中にアバ父よ、と呼ぶ霊をくださったのである」(ガラテヤ4:6)と語っている。

 ②願いをささげる。これは懇願する、窮乏を感じつつ、ひたむきに求めること。是非とも何とかして必要が満たされるように心から要求する祈り(マタイ8:1-3)。ツラァトの病に罹っていた男が、主イエスに救いを求めるが、「主よ、お心一つで、私をきよくすることがおできになります」と叫んだ。これは、原語では、「私がきよくなるのはあなたの御心です」という意味である。彼の信仰がよく表れているのではないだろうか。

 ③思い煩いながら祈るのではない。思い煩いというのは神に寄り頼んでいない心に起こるものであろう。私たちは聖書から離れて信仰の成長はない。聖書を読んでいくと神がどのようなお方であるのかがよくわかるようになる。神のご性質、ご属性などが理解される。神がどのようなご存在であるのか知ることによって、私たちは神を信じ寄り頼むことができるようになる。ア、神は全知全能である。イ、神は唯一である。ウ、神は霊であり遍在される。エ、神は絶対者。オ、無限。カ、永遠。キ、不滅。このようなお方として、神は私たちに最善をなされるのである。

 ④事ごとに「どんな場合にも」(共同訳)祈る。これはすべての問題という意味である。生活のこと、経済のこと、家庭のこと、健康のこと、仕事のこと、学校のこと等々。何事でも具体的に祈ることが許されている。「『わたしに何をしてほしいのか』とおたずねになると、『主よ、見えるようになることです』と答えた」(ルカ18:41)とあるとおりである。

 ⑤感謝をもって。「何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)とある。柘植師は、神の約束の言葉を握って立つことを教えられた。これは、祈りが聞かれる前に先取りの信仰を持つことである。必ずそうなると信じて感謝することなのだ。

 親子二代に亘りクリスチャンドクターの方々がおられた。父親の方が「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネ16:23)の御言葉から祈りに生きることをお話なさった。息子さんが英国のロンドン大学での留学を終えて帰国する時のことである。三越ロンドン店で土産に陶器の人形を買って日本の父親に送られた。到着して荷を解いてみると立派な貴婦人の人形が出てきた。感動した父親は、早速息子にお礼を伝えたのだが、ところが、何と一か月後、三越から請求書が父親の方にきたのだ。実は息子さんは自分で代金を払わないで父親のクレジッカードを使用し土産の人形を買ったのだ。

 息子さんが父の名によって人形を手に入れたように、キリストの名によって求めるならば、なんでもわたしたちは良きものを代価を払わないで貴重な宝を得ることができるのである、とユーモアをもって語られたのである。救い主を信じ、罪赦され、神の子となって驚くべき天の父なる神の恵みと祝福に与り、様々な問題から解放されていこうではないか。

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