題「時を生かす」ルカ12:13-21

 「時は金なり」Time is money. 「時は貴重であるから、無駄に過ごしてはならない」。「時は得難く失い易し」などは、時に関することわざである。6月10日は、時の記念日であったが、この日は、時間が大切であることを日本に広めるために設けられた日である。

 思えば一日24時間、皆に平等に与えられているが、どのようにその一日を有意義に使うかどうかは各個人が時間を如何に用いていくかにかかっている。 今を生きる私たちは、この大事な時を生かしきっているであろうか。

 聖書では、時間を表わすギリシャ語に「クロノス」と「カイロス」がある。クロノスは、時計が刻む何時何分何秒という客観的な時間。量的な時間のこと。カイロスは、決定的な時、転機、好機のことであり、質的な時のことである。換言すれば「意味を持つ時」のことである。私たちは、日常的に時とは何かと問い考えることはあまりないのではないかと思う。

 今朝、私たちは、ただ「川の流れのように」過ぎゆく時ではなく、創造主(宇宙・世界・天地万物・人類の造り主)との関係において、時を捉えて人生と結びつけて考えてみたい。聖書の神こそ時を造られたお方であるので「時に意味を与える」お方である。まず、確認したいことは、「時間」と「命」は神の御手にあるということである。

 列王下20:1-11の箇所に、ユダの13代目王ヒゼキヤが、病気で死にかかっていた様子が記されている。預言者イザヤは、主がヒゼキヤに家の者に遺言を書くよう語られ、生きながられることなく死ぬことを告げた。するとヒゼキヤは、激しく泣いて主の憐れみを乞い求めた。ここで不思議なことが起こる。何と神の計画が変えられるのである。神はヒゼキヤの祈りを聞き、涙を見て、死の病をいやされ十五年間延命されることを宣言された。

 ヒゼキヤが、いやしのしるしを求めると、イザヤは主の約束のしるしとして「日影が十度進むか、あるいは十度退く」と言った。ヒゼキヤは答えて、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」と言った。そこで、イザヤが主に祈ると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせたのである。

 この日時計のことを、公園の日時計のようなものをイメージするかもしれないが、古代では「階段日時計」であって、太陽が東から西に沈む際、日時計の目盛りのような階段に太陽の影がどの部分に落ちるかで時刻を知るのである。
 ここで日影が十度退くとは、地球の自転が瞬時、あるいは6時間にわたって90度逆転したことになる。赤道付近では、1万キロメートル移動したことになる。実際、宇宙で地球が自転公転をしている中、もし急ブレーキをかけて、後ろに逆転するようなことになれば、物理的に自然界がどうなるのかというと、海の波は大津波となり、国々に押し寄せて、人類は全滅していたことであろう。そうならなかったということは、神が瞬時的に時間を過去に戻されたということなのである。全くこれは人間の領域での出来事ではない。神が時間を支配され、神でなければできない御業である。

 私たちは、忙しい時代に生きていて時間は自分のものだと考え易いものだが、実際は、時間は自分のものではない(ルカ12:16-21)。

 神がこの金持の農夫に「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」(20節)と言われた。つまり農夫も私たちも神によって生かされている存在であるのだ。自分で勝手に生きている訳ではない。

  ①「時は神のもの」。神がその人から命を取り去られるならばそれで終わりである。死にたくないと泣き叫んでも、財産家も財産を手放し、地位名誉を手に入れた人もすべて置いていかなければならない。あるホスピス病棟での出来事である。ある男性患者は、一代で事業を起こし一生懸命働き成功させた。だが50代になって進行性のガンになってそこにおられたのだ。彼は担当医にすがりついてお金には糸目をつけないから、何とか治して欲しいと懇願するのだが、どうにもならなかった。一方、あるクリスチャンの女性患者が、人生の終わりを受容しながら平安のうちに召された。時は神の手にあると信じ委ねた方であった。看取られた母親と看取る娘の両者に天国の再会の希望があったと聞く。

  ②「時は神によって託されたもの」。神はご自分のものである時間を私たちに委ねられた。私たちは、時間の管理者である。神はよく用いるために信頼してお任せになられたのである。どう使うかは私たちの責任になる。この金持は、自らの多くの穀物や食料を得た時に、どうして自分だけのために使うことしか考えなかったのであろうか。これは彼の所有欲の罪である。大事なことは、私たちの信仰生活というものは、心と生活を分離してはならないものである。信仰生活は、日曜日(礼拝)や水曜日(祈祷会)だけするものではない。通常は世俗的に生きこの世の営みと信仰は別であるとしてわり切って日々過ごすことではないはずである。神が私を信じて時間を管理することを任せておられるということは、私たちに継続的信仰生活が求められる。それは主に対する臨在信仰である。ダビデ王は、詩篇の中でこう告白している。

「わたしは常に主を前に置く。主がわたしの右にいますゆえに、わたしは動かされることはない」(詩篇16:8) 使徒行伝2:25では、「わたしは常に目の前に見た」と訳されている。このような不断の臨在信仰が、私たちが責任を果たす原動力となる。

 ③「時は人生の試みである」。私たちにとって過ぎ去った過去をどうすることもできない。どんなに後悔したところで思い悩んだとしても過去を変えることはできない。しかし、これから起こる出来事については、神は私たちがどのように用いていくのか、どのように選択していくかを試みるのだ。私たちが、これから先何をするかについては、その選択にかかっているのだ。それぞれが与えられている自由意志による信仰の選択が重要なのである。人類の祖アダムとエバは、その選択に間違った。

 もし選択に間違ってしまうならば、金持の農夫のようになってしまう。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(21節)とは、そういうことである。神の栄光のために宝や財を用いていくことが神に対して富むことなのだ。さらに、マタイ6章で、主イエスはこう言われた。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すことのない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ6:19-21)。神に対して富める者は、天国に宝を積む者である。神の栄光のために、時と命と財を用いていく人生の豊かさに導かれていきたい。
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