題「心を守ること」箴言4:23

 「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(4:23)。
「守るべきものすべてに増して、あなたの心を保て。命はそこから来る」(共同訳)。
「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから沸く」(新改訳)。

  先回、神の知恵は、第一に大切なものであることを学んだ。その真理、知識、悟りは、心で受けとめていくものである。「馬の耳に念仏」や「馬耳東風」であってはならない。

 箴言4章20節から27節までに「心」という言葉が数回出てくる。旧約聖書の場合、それは理性、感情、意志をも含めた全人格を表わしている。ですから、全人格的に神の知恵を心で受けとめて、それによって保たれ、神のいのちが泉のように沸いてくるというのである。 私たちは、祝福されるクリスチャンライフのために、「心」を守らなければならないのである。そのことによって、「すべての道が安全である」(26節)ためである。

 さて、人間には守らなければならないものが多くある。健康、品格、生活、財産など守らなければならない。さらには、飛躍するが、今日的には、最近の防衛白書に記されているように、わが国の安全保障環境が激変しつつあるので、ロシア、中国、北朝鮮がいつ侵略してもおかしくないことを一般民衆を配慮して婉曲的に述べている。実際、各国はわが国に対して準侵略的な行動を繰り返しているではないか。「そんなことはないだろう」と高を括っていると、日本もウクライナの二の舞になるかもしれない。油断大敵であろう。私たちも国民の一人として時代の流れを見据えて国家を守る必要がある。

  しかしながら、今回は「心の防衛」について考えたい。一般的に「歴女」が増えていると聞くが、これは歴史に関する事柄が好きな女性を指す。時代や分野を問わず新世代の歴史愛好家のことである。彼女らが関心のある歴史を紐解くとわかることは、登場人物の人となりである。例えば、天才であったが私欲で堕落した人とか、英雄が色欲で失敗した人とか、名誉心に一身を委ねて身を滅ぼした人など。これらは、決して珍しいことではなく、とても多いということである。
 つまり歴史に名を残して知られている人たちにおいて、自分の心を守り通した人は意外に少ないということだ。

 では、今日、私たちはどのようにして自分の心を守ればよいのであろうか。

 第一に、「自分自身の心を知ること」である。わかっているようでわかっていないのが自分のことである。人間は、自分の人生の標準になる規範を持っていないと何をするにも自分勝手で曖昧な判断しかできないのではないだろうか。まず、人の心を映す鏡(聖書)の前に立って、自分の心を知ることである。自分のことがわからないのに他者のことがわかるはずがない。米国第39代大統領になったジミー・カーター氏の就任式後のことについてのエピソードを聞いたことがあった。彼は、ジョージア州の田舎の教会の教会学校校長であった。長年幼な子にキリストの福音を宣べ伝えてきた経緯がある。そのようなカーター氏は、毎日ホワイトハウスの執務室でいつも祈っていたそうだ。「主よ、私がアメリカと世界のためにあなたの御心に適う判断と決断ができますようにお助けください」と。彼は、2002年ノーベル平和賞を受賞している。

 第二は、「罪からの聖潔を求めること」である。もし自分の心に汚れ、罪、弱さなどを示された時、はばからず、キリストの前に出て謙虚にそれを認めて悔い改めて祈ることである。意外と些細なことで清き良心が汚されて心が鈍化することがある。例えば、小さな一円玉でも太陽の燦然と輝く光を遮るように、これくらいは、という小さな罪が、私たちから主の臨在を失わせることがある。

  あるクリスチャンのおじいさんが、夫婦で繁華街を歩いていた。どれほど二人で歩いたことだろう。やがて自宅に着いた。その日も平穏無事に終わろうとしていた。ところが、夕食の前におじいさんがおばあさんに悔い改めたいことがあるというのである。「おばあさん、自分の罪をあなたに言い表して悔い改めたいので聞いてください」と。妻は驚いて身構えた。するとおじいさんはこう言った。「私は、あなたと久しぶりで町に出かけて用を済ませて帰って来たが、帰り道に繁華街の映画館の前を通っただろう。その時、私は成人映画のポスターを見てしまった。ああいうのは通り過ごすべきであって、クリスチャンが見るようなものではなかった。何か心にスキがあったんだと思う。よい年になっているのにすまん。赦してほしい」と言うのである。真剣で真摯な態度でベテランのクリスチャンである夫の悔い改めの言葉を聞いた老妻は思った。「そんなことは、他者に言わずとも己の心の出来事として済ませることができたのに、敢えてそのような小さなことまでも妻に告白するとは、何とこの人は心の清い人なんだろう」と。自分の心を守る人は、小さなことまでも気をつけるのである。

 第三は、「御言葉に同化されること」である。日々のデボーションは習慣づけたいものである。「聖書と共に歩む日々」の冊子を利用しておられる方々もたくさんおられる。日毎に御言葉に親しみ、それを心に貯え、それによって歩むのだ。主は御言葉と一緒に働くので、私たちの心と思いを守ってくださる。ダビデはこう語っている。「わたしはあなたにむかって、罪を犯すことがないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」(詩篇119:11)と。私たちの人生においても、暗記した聖書の御言葉によって幾度救われたことか。

 かつて、メソジスト教会の創設者ジョン・ウェスレー(1703年~1791年)は、荒れ果てた寂しい場所で追いはぎに襲われ、財布を奪われたことがあった。ウェスレーは、おとなしく追いはぎになけなしの財布を渡しながら、聖書の御言葉をつぶやいた。その聖書は、常々から全体の聖書を読んでいないと思い出すことがない御言葉であった。
 第二コリント11章20節「あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています」(新改訳)と。その時から何年も経過していたある日、ウェスレーは教会から出て、以前財布を盗られた場所を歩いていると、何とその追いはぎにばったり出くわしたのだ。するとその追いはぎは逃げるどころか、ウェスレーの前に進み出ると、前のことを詫びてこう言った。「先生、私は先生がつぶやいておられたある言葉があれから耳から離れませんでした。そして、とうとう神の前に悔い改めたのです。今ではちゃんとした社会生活ができるようになりました。ここでお会いできたことも神の導きです。先生、お詫びと御礼を申し上げます」と。

 神の言葉というものは、たった一回聞いた御言葉であったとしても、不思議に人に確実に影響を与えるものなのである。私たちは、いよいよ御言葉に触れて主に似る者とさせていただきたいものである。祈りましょう。
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