有名な山上の説教(山上の垂訓)で、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とある。私たちは、この御言によりお互いにピースメーカー(平和をつくり出す人)になるのか、トラブルメーカー(問題や混乱をつくり出す人)になるのかが問われている。
1973年公開の映画「ブラザー・サン・シスター・ムーン」は、美しい曲に合わせてとても印象的な作品であった。51年前ではあるがよく覚えている。この映画は、イタリヤのアッシジの修道士フランチェスコの史実に基づいた物語でその半生が描かれたものである。フランチェスコというと、「平和の器」という有名な祈りがある。このようなものである。
主よ、私をあなたの平和の器とし、憎しみしかないところに愛の種子をまかせてください、痛みしかないところに、赦しを、疑いしかないところに、信仰を、絶望しかないところに、希望を、暗闇しかないところに、光を、また悲しみしかないところに、喜びを、どうか、みなぎらせてください。
慰められることを願うのではなく、慰める者となりますように、理解されることではなく、理解することを、愛されることではなく、愛することを、心から求める者となりますように、私たちは与えることにおいて受けるのです、赦すときに、自らも赦されるのです、そして、死において、永遠の生命に目覚めるのです
マタイによる福音書に生きて行こうとしていたフランチェスコの心がよく表されている祈りである。この朝、今一度、この世において平和をつくり出すことについて学び、私たちも平和の器にさせていただきたいと切に願うものである。
今日の聖書箇所は、争いをつくり出す人と、平和をつくり出す人とが、「憎しみ」と「愛」によって対照的に描かれている。12節「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」(口語訳)。とある。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう」(新改訳)。「憎しみはいさかいを引き起こし、愛は背きのすべてを覆い隠す」(共同訳)。「憎しみはいつも争いを起こし、愛は侮辱されても相手を赦します」(LB訳)。それぞれの訳が味わい深い。
11節にある「暴虐を隠す」と12節の「とがをおおう」とは、どちらも同じ原語が使われており、共同訳では、12節のところでこの言葉を「覆い隠す」と訳している。この方がわかり易いように思う。愛は、すべての罪とそむきと咎を覆い隠してしまうというのである。
関連の御言がある。箴言16章28節「偽る者は争いを起こし、つげ口する者は親しい友を離れさせる」と17章9節「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす。人のことを言いふらす者は友を離れさせる」である。この二つの御言が合体したものが、この10章12節に一つにまとめられているのでないだろうか。
さて、この信仰と思想は、新約聖書にも表されている。「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」(第一ペテロ4:8)。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(第一コリント13:7,8)。「かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである」(ヤコブ5:20)と。どれも箴言10章12節を充分に補っている。
これら一連の一貫した教えは、誤解があってはならないが、愛は決して罪をごまかして隠すことではない。神の御心ではない罪は、時には責め戒め正すことが必要な場合もあろう。しかし、ただ罪を責めるだけでは、人は決してその罪から離れることはできない。それほどに難しい。ルカによる福音書15章の放蕩息子の父親は息子の罪と過ちを断罪することもできたが、何もかも承知でありながら丸ごと愛したように、人が救われるためには、愛することによって罪人のうずいている心を包み、赦し、いやしていくのである。新聖歌222番「罪の深みに」で繰り返されているように、「愛なり、愛なり、救いうるは愛なり」なのだ。
さて、2022年第94回アカデミー賞授賞式で「タミー・フェィの瞳」のジェシカ・チャスティンが主演女優賞を受賞した。この映画は珍しく、1970年代から1980年代にかけて、米国でキリスト教テレビ伝道者として多くの視聴者を熱狂させたジム・ベーカーとタミー・フェイ夫妻の波乱万丈な人生の盛衰伝記映画である。当時、日本ではあまり知られてないのでほとんど宣伝されていなかったと思われる。
実は、この時代は、全米でテレビ伝道が盛んであった。パット・ロバートソン、オーラル・ロバーツ、ロバート・シューラー、ジミー・スワガード。日本でもレックス・ハンバードとジミー・スワガードのテレビ伝道は知られていると思う。いずれも音楽の演出が巧みで一つのショー番組として出来上がっていたのではないだろうか。そして、ジム・ベーカーとタミー・フェイ夫婦は、全米でエンターテイメントなキリスト教番組(PTLクラブ)を作り続け視聴者動員数において大成功を収めた。やがて彼らは、豪邸に住み贅沢な生活をするようになる(繁栄と成功の神学)。勢い1985年キリスト教テーマパーク「楽園USA」に過剰な投資や財政の不正利用、また夫婦ともに性的な問題を起こしてしまう。その結果、彼らはすべてを失い、離婚、ジム・ベーカーは懲役45年、罰金50万ドル(7500万円位)の実刑判決により刑務所へ行くことになった。
妻は、その後悔い改めて再び神を讃美するようになる。その様子がこの映画にも描かれている。一方、ジム・ベーカーは、刑務所から生きて出らないと思われた。彼は一応模範囚として生活していたが、そこには何の希望もなかった。そんなある日、ある人物の面会の申し出があった。訪問者は誰か。何とあの世界的伝道者ビリー・グラハム師であった。ベイカーは、もはや信者や牧師には会いたくなかった。言いようのない心の傷がうずくだけであったのだろう。
だが模範囚としては、会わなければならなかった。彼は仕方なくグラハム師に会うことにするのだが、彼は面会室で信じられないことを体験することになる。驚いたことにグラハム師は、裁きの言葉や矯正するための何かを語るために来たのではなく、190センチの大きな男が背中をぐっと曲げて小さな身体の受刑者の男にハグしながら、「I Love you」とやさしく語りかけたのである。ジム・べーカーは、その時グラハム師を通して衝撃的なキリストの愛を感じ取った。
そこから彼の心は開かれていったという。「今まで自分が述べてきたこと、繁栄・成功の神学は間違っていた。主イエスは、地獄(刑務所)まで共にいてくださった」と真の悔い改めをすることができたのだ。それから、心底悔い改めた者として本当の模範囚となり、フランクリン・グラハムの救援団体「サマリタン・パース」などの活動に協力して、1994年、刑期が大幅に短縮され出所することができた。その時もグラハムファミリーが迎えに来たそうである。
ジム・ベーカーは一人ではなかったのだ。映画の最後に、登場人物のその後について紹介されるところがあるそうだ。ジム・ベーカーのところでは、「ジムは獄中で罪を償い、社会(テレビ伝道)に復帰している」と字幕に出てくるとのこと。
Kanの「愛は勝つ」ではないが、「神の愛は勝つ」ということだ。
