題「怒りの克服」箴言14:29,30

 「怒りをおそくする者は、大いなる悟り(知恵・判断力)があり、気の短い者は愚かさ(わきまえがない)をあらわす」。

 新改訳「怒りを遅く者には豊かな英知(洞察力・識別力)がある。気の短い者は愚かさ(鈍い・頑迷)を増す」。

 共同訳「怒りを遅くする者人は英知を増す。短気な者はますます無知(強情)になる」。

 この節は、30節と合わせて読むと分かりやすい。「穏やかな心は身(体)の命(健康)である。しかし興奮(妬み)は骨を腐らせる(むしばむ)」。

 ここでは、二つの対比がある。「怒りを遅くする者」「穏やかな心の人」と、「気の短い者」「興奮する心の人」である。このことによって、忍耐と自制は大切な人間関係の規範であり、人の心の状態が人を健全にもし、不健全にもすることを教えている。

 さて、私たちにとっての怒りの損失について調べてみた。
・体への影響。自律神経が乱れて心拍数や血圧があがり血流が悪化する。細胞は栄養不足。老廃物や疲労物質が排出されにくい。
・脳への影響。長期の怒りやストレスは、炎症反応を促進し脳神経組織を損傷させる可能性がある。神経変性疾患のリスクも増加の可能性があり。認知機能の低下を引き起こすこともある。
・仕事への影響。怒りにより仕事上で適切で冷静な判断や行動ができなくなる。多額な損失や取り返しのつかない人間関係の破壊が起こってしまう。

 そこで、「アンガーコントロール(怒りの制御、調節、管制)」が必要になる。すでに企業・教育・スポーツ界においては、怒りのコントロールについての特別な人材養成プログラムがあって組織的に進められていることを聞く。どうでもよい問題なのではないので、真剣に取り組んでいるのであろう。
 またそこまではしないが、一般的に卑近な取り組みとして、・深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。・ストレッチでリラックスさせる。・親しい人と話す。・よく笑うようにする。・好きなものを食べる。・趣味を持つなど、と怒りで失敗した際にいろいろなストレス発散法で改善を試みる人たちもいるそうだ。

 しかしながら、実際、そういうことが間に合わないことが多いのではないだろうか。特に、長年、身についている気性、性質、環境で長い時間をかけて習慣として身に沁みついてしまった性格などはなかなか御することが難しいのではないだろうか。

 さて、「ちいろば」牧師、榎本保郎先生は、多くの方々に愛され尊敬されていた。神学生時代、榎本師の著書や講演テープなどで多くを教えられたことがあった。その一つである証しの書(ちいろば)には興味深いことに、何度も、腹が立ったこと、怒ったこと、苛立ったことが赤裸々に記されている。
 同志社の神学部の神学生であった頃、京都の開拓伝道の最中、喜びも感謝もなく、不平不満に満たされていたそうである。他人を非難し、心はいつも冷たく、説教にも力がなかったことを述懐しておられる。そんなある日、宣教師夫人が、「ヤスローサン。アナタノカオ、オコッタノカオヨ、ソレダメデス・・」と。榎本師は、これを聞いてまた腹が立った。「オコッタの顔」であろうと、なんであろうと、ほっといてくれ、どなりつけたかったそうだ。

 だが言われてしまうと気になってしまうのが人間である。もう一度自分の顔を改めて鏡で確かめてみると、確かにこれではと思うような顔であった。

 そんな暗い毎日を送っていたある日、E・スタンレイ・ジョーンズ師の言葉、「あなたの15分があなたを変える」という言葉に出会った。それは、毎朝のデボーション生活のことであった。聖書を読み教えられ、自分に当てはめ適用し、祈りの応答をする。その後は、信仰生活の実践に押し出されることである。 榎本師は、この御言への聴従生活が身についていく中において、聖霊の助けと導きと養いによって、神の命に満たされるクリスチャンの大いなる感動と喜びと平安を体験するようになったのである。

  今回、年度標語「円熟を目指す」ためにも改めて初歩的なところから確認したい。

①「怒りは神にとっても人にとっても不健全な罪であることを認めること」。この類はどうしようもないと諦めていないだろうか。「自分が生きている間はダメ。死ななければ治らない?」と言わないで、罪に対して他を見ないで直視し正直にそのまま認めることである。自分の無力を認めることである。単なる「人間の弱さ」で片づけてはならない。そして「自己絶望する」ことである。

②「邪悪な怒りを神に言い表し、激怒と制御しにくい気性に対して、神の赦しを求めること」。神との祈りによる交わりはどうなっているか。神との断絶状態はないか。悔い改めははっきりしているか。「言い表わす」とは、告白すること。原語で「ホモロゲオー」というが、示された真理に同意するだけではなく実際に言葉にして言い表すことである。これは祈りによるものである。

③「キリストに解決の道があることを信じて心の王座に主を迎えること」。肉的な心の罪の傾向を自覚して、主を主人とし心の王座に迎えることだ。己に従う人生から主に従うことを選び取ること。肉的な力ではなく、聖霊に導かれ動かされた意志の力による決心である。

④「聖書のみ言葉に聴き養われること」。「継続は力なり」とも言われるが、日々聖書の御言に養われ霊的に成長することを切望することだ。神の御言が人を生かすのである。神の御言が働き、私たちの生まれながらの気質や環境によってつくられた性格さえ変えることができるのである。日々のデボーションはそのためにあるのだ。
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