題「人と神の計画」箴言19:21

 先週、フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーの美談を紹介した。彼の「晩鐘」(1857年-1859年)という作品のことを多くの方々がご存じだと思う。夕暮れの白い光を受けて、田舎の農業従事者である夫婦が広い畑で一日汗を流した仕事を終えて、頭を下げて祈っている。男は鋤を横につきさし、帽子を脱ぎ手に持ち、女は手さげ籠を足元に置き、右側には手押し車を止めている。向こうの教会から夕べのアンジェラスの鐘が響いている。 その当時、フランスではこの鐘を合図に多くの農業従事者が仕事をやめ、今日一日の仕事を済ませた喜びを神に感謝することが麗しい習慣となっていたようである。

 今日は、収穫感謝礼拝であるが、この絵ほどすべてのことに感謝することを教えている絵は他にないのではないだろうか。

 共々、一年間を振り返り衣食住を与えられたお方に感謝し主を崇めたいものである。

 さて、箴言19:21を学ぼう。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主のみ旨(み心)だけが堅くたつ」、新改訳「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」。共同訳「人の心にはたくさんの企て。主の計らいだけが実現する」。

 私たちが本当に収穫物だけではなく、すべてのことに感謝することができるとするならば、この御言を確信していなければできないと思う。私たちは、過去を振り返りいろいろな計画を立てて自分なりに一生懸命取り組み生きてきたのではないだろうか。ところが、私たちの人生というものは、甘いものではなく、自分たちが立てた計画どおりに思いどおりにならなかったことが多かったのではないか。

  もし私たちの自我が勝ってしまうならば、志が遂げられなかったことで、失望落胆し欲求不満、フラストレーションでやりきれない心境になっているかもしれない。これは精神的に健康的に決してよい感情ではない。 そこで聖書に聴くのである。神の言は、人間の多くの考えや計画は、思ったように達成できるものではなく、ただ神の目的に従う時にのみ調和を保ち実現するものである、ということだ。結局、大事なことは、主にすべてを委ねて結果を神に任せることである。

「人は心に自分の道を計る、しかし、その歩みを導くのは主である」(箴言16:9)、「人の歩みは主によって定められる。人はどうして自らその道を、明らかにすることができようか」(箴言20:24)。この二つを引用聖句としてあげておきたい。 ここで、人の歩みは、最終的にはすべて主によって定められていることを教えているのだが、これは世にいう宿命論のことではない。

 宿命論からは、諦めしか出てこないであろう。結局どんなことを願っても求めても計画を立てても、神が決めるのだから、何を思い描いても何を志し努力しても無駄である。それならば何もしないでおこう、ドリス・デイの「ケセラ・セラ」(なるようになるさ)などと考えるのかもしれない。 しかし、そのようなことではない。

 神の定められるものは、私たちの幸せのためである。私たちの最善を願ってなされる御業である。それをなさる神のご属性は、聖、義、愛、真実である。このお方が、私たちの人生において失敗をしたり、誤りを許されるはずがない。たとい自分にとって良いと思われる結果にならなくても、それが不幸なのではない。それゆえに、その善なるお方にすべてを委ねることが最も良き解決であることを教えているのだ。もし人の計画がうまくいかなくても、それが神の最善の御心ならば、私たちはそれがどのような結果であっても、感謝することができるのではないだろうか。

  福音なき人物であるが、江戸時代の備前国富岡村の湯屋与一兵衛という男がいた。彼は人の心の世界(心理学)に関心を持っていて、人の道について心学者を毎月数回招いて説話を聞くのを常としていた。
 そんな与一兵衛は、「はっ、ありがたい」と言うのがくせかのように、何かにつけ、この言葉を出していたそうだ。朝起きて、母の顔を見ても、妻や子どもの顔を見ても、「はっ、ありがたい」といった具合だ。村人が、こんな彼に、「なぜそんなにありがたいのか」と尋ねると、「一日の初めに、母、妻、子どもの元気な顔を見られるなど、こんなありがたいことはないではないか」と返事した。

 客が来るとまだ用件をも聞かないうちから、「はっ、ありがたい」と言う。「用件もわからないうちに、どうしてありがたいのか」と言うと、「用件がわからなくても、他人様がわざわざ訪ねてくれたことは、ありがたいではないか」と喜んだ。用事を終えて客人が帰りかけると、また、「はっ、ありがたい」と言う。話が無事に済んだからだ。

 ある日にわか雨にあい、急いで家路につこうとしたため、ころんで、ひざこぞうから血を流した。近くにいた小僧が急いで助け起こすと、「はっ、ありがたい」と言った。「なぜ、こんなになってもありがたいのですか」と不思議そうに小僧が尋ねると、「自分のそそうでころんだんだ。脚の骨を折っても仕方がないのに、これだけの傷で済んだんだ。これが感謝せずにおられようか」と。

 馬にけられた時にも、起き上がると、「はっ、ありがたい」と言った。ふみしぶされなかった幸いを喜んだのである。万事が、「はっ、ありがたい」なのだ。 いつしか村人は、彼のことを「ありがた与一兵衛」と呼ぶようになったそうな。

 そういえば、姫路時代に、「ありがたお婆さん」と呼ばれていた方がおられた。彼女は、神を信じる信仰によってすべてのことを見て、どんな時も「感謝です」と言っておられた。この姉妹が、姫路城近くにある住まいから、朝早く6時からある早天祈祷会に毎日参加されていた。お若いお方ではない。1900年生まれのご高齢者であられた。しかもお年で目がご不自由で押し車を使ってゆっくりゆっくり歩道を選びながら、30分かけて教会に来られていた。

 ある日、教会に向かう途中のこと、その時代まだ整備されていなかった道路の脇にある水路に押し車の車輪の一方を脱輪させてしまったのだ。その勢いでお婆さんは転倒してしまった。ちょうどその時、若者のオードバイが通りかかるのだが、瞬間的にこのお婆さんの口から出た言葉に彼は驚いた。倒れた瞬間に、「感謝!!!」と叫んだのだ。「婆さん。こけたのに何で感謝なんや!」と言いながらこのお婆さんを助けたという。これは常日頃からの感謝の信仰がなければ出てくるものではない。実にこの姉妹は、どんな状況の中でも主の最善を信じて歩んでおられたのである。

 この方の葬式の司式の折、このエピソードを家族と親族に証したことを今もよく覚えている。私たちも生き方そのものに今日の御言を心に刻み神に導かれる人生に感謝しつつ歩んでいきたいと思う。
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