元旦礼拝 題「前に向かって」ピリピ人への手紙3:12-14

 明けましておめでとうございます。2025年の一年の歩みのために心備えたい。新年にあたりカレンダーが新しくなった。正月に一歳年をとることを「年取」というが、私たちは年ごとに自らの残りの日を数えているのだ。

 詩人は、詩篇90篇12節で、「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」と言っている。これは、自分の生涯の残りの日数を数えることによって、知恵深い人生を送らせてください、と祈っているのである。

 現在40歳の男性が、平均寿命81歳まで生きたとする。81歳-40歳=41年、41年×365日=14,965日。これがある意味での残された日数である。その間、どう生きるかが問われていると思う。人は、元旦の日に自分の死について予想することはまずない。しかし、医学の進歩により人間の寿命は延びたが、人間が死ぬことに変わりはない。それだから、お互いの残された年月はかけがえのない時間なのである。やたら粗末に過ごしてはならない。それでは、今後どのように生きていくべきであろうか。

 一般的に「老人は過去に生き、壮年は現在に生き、青年は未来に生きる」、と言われているが、老人の口癖で、「昔は良かった」というのがある。なぜそう言うのかというと理由がある。「死期が近づいているから」、「回顧バイアス(偏り)だから」、「現在の状況に不満がある」、「人間は若い頃に憧れるから」などである。そして、その言葉の後に、「今は駄目だ!」と続く。

 そこで、若者たちが嫌がって言う。「昔は良かった、は言うな。ダサいっ!」と。しかし、面白いのは、その青年も「昔は良かった」と言うことがあるそうだ。幼稚園児の頃、小学生のことを思い出すのだろうか。

 とにかく、私たちも過ぎ去ってしまった昔のことばかりに囚われていると後ろ向き人生になってしまう。限られた人生、前向きに積極的に取り組んでいきたいものである。

1.前向きの言葉を使おう。ヨハネ1:1「初めに言があった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」とあるが、神は言によってすべてのものを創造されたお方である。言葉は不思議なものである。言葉の使い方によって良きものが生み出されることがある。否定的かつ消極的な言葉を使い続けるならばそういう結果がもたらせる。人を見ても物を見ても、感謝も評価もせず、ただ愚痴や不満ばかりであると人生幸せであるはずがないだろう。その逆の言葉を使うのである。自分に対して、子どもや夫や妻に対して、舅姑に対して、「いてくれてありがとう!」それだけでも違ってくるのではないだろうか。

2.前向きのものに触れよう。聖書は、前向きな言葉で満ちている。人は触れるものに似るという性質を持っているが、神の言にできるだけ触れる事だ。聖書の言葉を聞き読むことによって良き影響を受けることができる。あるところの木こりが、大木を汗だらけになりながら一生懸命ギーコギーコと切っていた。しかし、木こりの大切な道具であるノコギリの目立てができていなかったので、なかなか切り進めなかった。それを見ていた人が、その仕事をやめてまずノコギリの歯を研ぐように言った。するとこの忙しいのにそんな時間はない、と答えて助言を聞かなかったが、ついに困り果てて、やっと目立てをすると、何とよくノコギリの切れること。何の問題もなくその大仕事を終えることができたという。この話は、大事なことを優先することの例話である。人間によい影響を与える神の言葉を聴き養われるために教会の礼拝に参加しよう。

3.心に良いものを描くこと。人間の前向きな行動は、強い意志だけでは生まれない。人は弱いのですぐ腰砕けになってしまう。人間の行動は、心に描いたものによって生まれる。夢や幻を心のスクリーンに描き続けることだ。子どもに夢を与えたディズニーランドの生みの親といえばウォルト・ディズニーであるが、彼は子どものような夢に満ち溢れて、前向きの生涯を送った人であった。カリフォニアのディズニーランドよりも大きなフロリダのディズニーワールドのお話である。その完成の日に、ウォルト・ディズニーの友人たちが集まってこう言ったという。「ああ、悔しいことをしたなあ。あいつもこれを見て死にたかっただろうに」と。この日、ウォルトは地上の人ではなかったのだ。その時、他の友人がこう言った。「いや、彼は見たんだよ。だから、今日これが完成したんじゃないか」と。夢を描くことによって実現につなげることができるのだ。

4.前向きの人生観は神を信じること。周りや人を見ないで振り回されないで、上を見上げて生きることである。聖書の神は人間を造られた創造主であって、最高の責任者、人間の存在証明者、根源者である。このお方との関係を日々整えて祈りつつ歩むことである。ヨハネ9:1-3に、生まれつき目の不自由な人が出てくる。弟子たちは、彼の存在と人生に興味をそそられて、主イエスに「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問うた。これは単なる好奇心の因果応報の思想による質問でそこに愛も思いやりのひとかけらもなかった。おそらくイエスは、厳しい顔をなさって弟子たちをごらんになったことだろう。そして、言われた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と。そのとおりに男はイエスの御言によって目が開かれて見える者となり、神の栄光が現わされ生きた証人として用いられるようになった。彼は、神との関係を整え神を信じ上を見上げて生きる人生をわがものとした。それは、過去を問う「なぜ」から、現在と未来を「どう生きるか」に変わった瞬間であった。

「活水の群」創設者柘植不知人師は、神との関係を最も重んじられたお方であったが、その説教は「人生の四大問題からの救い(生活・病気・罪・死)」であった。これは1924年(大正13年)から語られた福音であるが、それは今も新しい。先の四つのポイントを「生活問題・病気の問題・罪の問題・死の問題」に適用するならば、すべてに解決が導き出されることを信じている。

 さて、使徒パウロは、愛するピリピ教会の人々に、「腰を下ろして収まってしまう人生ではなく、完全(哲学的・抽象的な完全ではない。成熟したものの意)を追い求めて生きること」を示している。よく一般的に聞くことは、聖書を極め尽くした訳でもないのに、神さまのことを知り尽くた訳でもないのに、キリスト教はこんなものだと決めつけている信徒の方々がおられるということである。厳しい人生の闘いに身も魂も疲弊して信仰が弱りきっているのだろうか。

 クリスチャンの生涯は、パウロが言うように一つの特徴を持っている。それは、一生求道者であることなのだ。普通、求道者というと信者になる前の準備期間に身を置く人のことであるが、たとい信仰告白をし洗礼を受けていたとしてもそれでクリスチャンとして卒業したのではない。そうではなく、救われてからも人間としてクリスチャンとして成長を目指して生きることが重要なことなのである。短いこの箇所から二つのポイントをあげておこう。

・「自分がイエス・キリストに捕えられたために、捕らえようとしていると語る」(12節)。彼は、ユダヤ教の急先鋒の迫害者であったが、ダマスコ途上で復活のキリストと出会ったことによって人生が全く変わってしまった。主に救われて魂が捕らえられたのだ。この時から彼はイエスの夢を追いかけることになった。イエスの地上での目的と計画を全生涯かけて追い求めていったのである。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。

「人の子(キリスト)が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)。パウロの夢と幻は、イエスさまの心をいただいものである。それは多くの人々がキリストにより救われることであった。

・「パウロは、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標をめざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」、と言っている(13,14節)。彼がこれまで達成してきたもの、成功してきたものは多くあったが、それらを手柄話とせず却って忘れて、前に向かって長距離ランナーの選手のごとく、決勝のゴールに向かってひたすら走るのである。そして、「信仰の報酬」は全能者に一切委ねるのだ。

 さあ、2025年の新年に当たり、お互いの人生、環境や問題や他者に支配されたりしないで、ひたすら自分らしく知恵の心をもって前に向かって走っていこうではないか。そのために、神の豊かな助けと守りと導きがあるようにお祈りしたい。

目次