| 子どもの頃、教会学校でよくきれいなカードをもらったことがあった。そのうちの一枚は、女の子が手を合わせて目を開けて祈っている姿であった。後でわかったことだが、これはジョシュア・レイノルズの作で「幼子サムエル」という題であった。預言者サムエルの少年時代の祈りの姿なのである。 彼の母ハンナは、不妊の女であったが、信仰の切実な祈りによってついに我が子をその腕に抱くことができた。 サムエルは、その生まれたいきさつからしても祈りの子であった。そして、彼は生涯を貫いて祈りの器として用いられた人であった。「そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた」(詩篇99:6)とあるように、後代に至っても祈りの人サムエルのイメージは薄れることはなかった。 彼の祈りが驚くように神に聞かれたのは、サムエルが、子どもの頃、「しもべは聞きます。お話ください」(サム上3:10)と祈ったように生涯神に聞く姿勢を失わなかったからであろう。「聞く」という言葉の意味は、「聞き従う」ということだ。彼は注意深く、従順に神に聞く人であったゆえに、神の権威ある預言者として神と人々の信任を受けることができたのだと思う。 ところが、サムエルの人生の晩年において不幸と思われる出来事が記録されている。イスラエルのさばきづかさとされた長子ヨエルと次男アビヤが不正を犯したのである。「その子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた」(サム上8:1-3)とある。神の人サムエルに、どうしてこのような子らができたのか。彼は自身の先生であるエリが息子たちを正しく導くことができなかったことの結果を知っていた(2:29,34)。 息子たちは放縦の道を走り滅亡に至った。 サムエルはエリと同じ轍を踏むことのないように注意していたことだろう。それゆえに、実に彼は最も公正な預言者であった(12:1-5)。そればかりでなく、彼は偉大な神の力が宿っていた。このような人が息子たちによい感化を与えることができなかったとは思えない。もしかしたら、彼らの母親に問題があったのかもしれない。子育ては二人親によってするものだからだ。他の可能性があるとすれば、息子たちの自己責任における堕落であったのかもしれない。いくら血肉分けた親子であったとしても、別人格であり親でもどうすることもできないことはあり得ると思う。 とにかく、彼らの堕落はイスラエルの民が神権政治を嫌い王を求める口実となった(8:5)。これは霊的指導者に対する謀反であり反逆である。「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」(8:6)。だか、サムエルは怒らず神に祈った。 すると、神はわがままな民の言うことをサムエルが聞き従うように促される(8:7-9)。主の御心は寛大であり神の人も民に対して寛容であるべきことを見る(8:10-18)。 かくして、神はサウルを民の王となることを許し認められるのであるが、その後、サムエルのとりなしの祈りも空しく、傲慢ゆえにサウルは堕落してしまう。そして、ダビデの選びと信任と展開していく。民はこのことにより王制政治の脆さを痛感するのである。 サムエルは、神の栄光と民の幸福をひたすら祈る人であった。彼は散々自身にひどいことをした民のためになおも祈るのである。「わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう」(12:23)と。ここに真実なサムエルの人格が明らかにされていると思う。 ご存じのように、長きに亘りイスラエルの敵はペリシテ人であった。彼らは度々民を苦しめていた。だがサムエルは「祷告」(とりなしの祈り)をもって民のために仕え敵と戦ってきた。どこまでも民に寄り添うサムエルであるにも拘わらず彼は民に捨てられたが(8:5,7)、サムエルは民を見捨てないでとりなしの祈りを続けるのである。 ここで注目したい言葉は「正しい道」である。神にとっての正しい道と人間の正しい道は異なる。 十字架の主のとりなしの祈りに、「父よ。彼らをおゆるしください」(ルカ23:34)がある。人は敵を呪うであろう。人は敵を憎む。それでそのことを誰も咎める者はいないだろう。だが、主イエスは違っていた。敵のために赦しのためのとりなしの祈りをささげられたのである。このサムエルの祈りはキリストの祷告と救いの予表であることを教えられる。 あなたにとって正しい道とは何か。相対的な人間社会の正しさか。人それぞれの正しさがあって、何が正しいのかわかないような正しさだろうか。時代の思想的な流れで変化する正しさか。昔正しかったが、今は正しくないものなのか。主は、そのような曖昧な人間の正しさを超越して十字架により絶対者としての正しさを証し愛と赦しを貫きとおしてくださった。それによって人類は救われたのである。そして、その救いを信じ受けた者が、誰かのためにとりなす者と変えられていくのである。今日は、そのことを心にしっかりと受けとめ、神の正しい道に生かされる者とされたい。 |
題「正しい道」サムエル記上12:19-24
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