| 私たちの新会堂が与えられて早三年が経過している。この御堂が祈りに応えられてこの地に建てられたのは、主の御心であり、この建物により主を礼拝し福音が益々宣べ伝えられるためである。 そのためには、教会の共同体が霊的に整えれていることがどうしても必要になる。内部に教会の霊的建て上げと宣教の妨げがあるならば教会の使命を果たすことは困難である。 勿論、地域の諸教会は様々な弱点や欠点、至らないところがあって、そこに主の顧みとご干渉によって導きが与えられて改善がなされ主の証しの教会として成長していくのであって、最初から完全な教会はない。その意味で、この教会も成長の途上にある地域教会である。 さて、今朝の学びとして祝福された教会の共同体の整えは、「信者同士互いに仲良く生きること」であることを確認したい。実に目指すところはシンプルである。教会員同士、自然な意思疎通の元、仲が良いことはとても幸いなことであろう。「仲良きことは美しき哉」である。そこで、かつての弟子たちの問題の根本を見ることは、今日のクリスチャンの問題を解決するための具体的な策にもなる。 マルコ9章30節以下のところを見ていこう。イエスは、残り少なくなった弟子たちとの交わりと訓練の尊い期間を惜しむように過ぎゆく時を大切にしておられた。主は、「信じて祈ることの訓練」(9:19-29)を弟子たちに与えられ共にガリラヤを通過してカペナウムに来た。その移動中、主は弟子たちにこれから起こる十字架の死と復活について教えられた(30,31節)。しかし、彼らはその語られた事を悟らず理解できなかった。また、恐れて質問することもできなかった(32節)。ペテロなどは、ピリポ・カイザリヤで主にとんでもないことを言って叱りつけられたことを思い出したのだろう(8:32,33)。 ところが、その後、事もあろうに何と弟子たちは、主が十字架のことを語られたにも拘わらず、道々、誰が一番偉いかと、互いに論じ合っていたのである(34節)。 これは、彼らの心の中に巣くっていた根深い妬みと自己中心の思いがあったからである。おそらく、この論争は、ペテロのピリポ・カイザリヤでの素晴らしい信仰告白、ペテロ、ヤコブ、ヨハネのヘルモン山での変貌山での素晴らしい体験と、それと対照的な谷間での9人の弟子たちの惨めな失敗がそのきっかけとなっていると考えられる(8:29,9:2-29)。 実は、キリストの弟子たちが最後まで苦しんだものは、他ではない、「だれよりも偉くなりたい」という卑しい心であった。また、悪魔も「偉くなりたい」という人間の罪の本能を巧みに攻撃したのだ。そして、「だれがいちばん偉いか」という弟子たちの仲間内のケンカほど、イエスを悲しませたことはなかった。 33節から37節までの内容は、弟子たちの争いと傲慢に関する主の訓戒である。主は弟子たちに「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者となりなさい」(35節)と教えられた。 弟子たちには、出世欲、支配欲、権力欲、名誉欲があった。弟子たちの関心事は、キリストの亡き後誰がイエスに代わって指導者になるのか。そして、キリストに従った信仰の報いとして誰が神の「栄光の座」を射止めるのか。彼らは気になって仕方がなかったのである。 結局、ここに人間の一番の弱さがある。「傲慢」、これこそ罪人である私たちの「病根」である。かつて、エデンの園で、悪魔の化身ヘビはエバに園の中央にある木の実について、「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のようになる」(創世記3:5)と持ちかけた。被造物である人間が、「神のようになりたい」、何と傲慢であろうか。これが人間が堕落する前からの人間の泣き所であったと思われる。私たちの急所中の急所である。悪魔がそれを見逃すはずがない。一石二鳥の効果があった。 悪魔は、主の受難を予告された直後の弟子たちの動揺したその心に、争いを促し追い打ちをかけたのだ。これは十字架の御業の妨害のなにものでもなかった。 非常に危うい場面である。そこで、主は彼らの教師として座して「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならなければならない」と言われた。本当の偉大さは、弟子たちが考えるようなものではなかった。世間の常識と人間的な知恵とは異なっていた。 「一ばん先になろうと思う」とは、他人を押しのけてでも前に出ることである。これは、今でも世間の常識であろう。ところが、イエスは、「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となる」(新改訳)ことが、人の先に立つ道であることをお示しになられた。この世の標準では、偉くなるためが目的になるが、そうではなく神と人に仕える者となることを意味している。 主は、真に偉大な者は、自らむなしくし、他人に仕える者なのだ、と教えられたのである。そして、ひとりの幼な子を抱きしめながら、彼らのまん中に立たせ、「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名ゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受け入れるのである」(37節)と言われた。幼な子は、当時の社会では、価値ある者と認められていなかった。小さく、つまらない者で、ローマ社会では不要だと親や大人が勝手に決めれば、いつでも捨てることが許されていた。そのような者を受け入れよと言われるのである。これは、天国における真に偉大な人についての教えである。 「この世では、このようなとるに足りない幼な子を愛し、その幼な子のために心をくだく者、そういう人たちは全くとりえもない仕える者だと考えられるかもしれない。だが実はその人こそわたしに、そして父なる神に仕えているのだ」と語っておられるのだ。これこそ、神の国の偉大な人である。 他者に仕えることもしないで、「かしらになりたがっているデオテレペス」(第三ヨハネの手紙9節)のような人ではなく、真に恵まれた人、遜っていと小さな者や務めに心から仕える者とされようではないか。この主の御言によって、弟子たちの傲慢な心は、矯正されたに違いない。 しかし、実際に深く悟ったのは、十字架の死と復活を経て聖霊降臨後であったのだろう。 さあ、私たちの教会の交わりの中では、どうであろうか。 「偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならなければならない」(マルコ10:42-44)。 「『異邦人の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれている。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。』」(ルカ22:25-26)。 ◎みんなに仕える者になる。◎みんなのしもべになる。 ◎みんなのしんがり(後になる)。◎一番年の若い者のようになる。 これが、主の教会の共同体である一人ひとりが目指す祈りである。 |
題「仕える者となる」マルコ9:30-50
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