題「実を結ぶ信仰」マルコ11:27-12:12

 キリストの受難週の出来事である。主は、日曜日、ベタニヤのマルタ・マリヤの家から出て来てエルサレムに入城され、その日ベタニヤに戻られた。月曜日、再びベタニヤからエルサレムに出かけ、道中いちじくの木を呪われ、エルサレムでは宮きよめをなさった。同日、ベタニヤに戻り、火曜日の朝、三度目エルサレムに向かう途中、枯れたいちじくの木により弟子たちに得たりと信じる信仰についてを教えられた。エルサレムに入られた主は、その日、祭司長、律法学者、長老たちから何度も質問を受け彼らと論争することになった。この日のことを論争の日とか質問の日と呼ばれている。

 11:27-33は、主の権威についての質問。12:13-17では、税金についての質問。12:18-27は、復活についての質問。12:28-34は、第一の戒めについての質問。12:35-37では、今度は主の方から群衆に対して反問された。

 今朝は、11:27以下の第一の質問を見てみよう。「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けられたのですか」(28節)とある。これらの事とは、宮きよめことである。祭司のような神殿管理者の許可も得ないで、宮の両替人を追い出すとは何事か、と言うのである(神殿の中での礼拝の犠牲のために鳩などを売り、献金のために換金することは許可されていた。礼拝者の便宜を図っていたのであった。ところが、利益を得ることに抜け目のない連中は、それを口実に神殿の中で商売をしていたのである。しかも神聖な神殿においてである)。これは逆切れである。

  この質問に対して、主はバプテスマのヨハネを持ち出して、彼の教えはどこから来ているのかと切り返した(29,30節)。
「そこで、イエスは彼らに言われた、『一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい』」と。当然それは神からのものであった。同様に主の業も神の教えによるものであることを示そうとされたのだ。祭司たちは、さすがに神殿を利益の場にすることが悪いことであることは知っていたのであろうが、真理に対して不真面目である彼らは正直に答えようとはしなかった。「わたしたちにはわかりません」(33節)と、しらばっくれた。真理に対して不真面目な者に主も答えることはない。

  12:1-12は、悪い農夫のたとえ話である。この中で、主は神に愛され、祝福されているにも拘わらず、神の愛に答えようとせず、その恵みを受けようとしなかったユダヤ人を責めた。このたとえでぶどう園の所有者が父なる神、ぶどう園がイスラエルの民、農夫たちがイスラエルの指導者たち、しもべが預言者たち、そして、所有者の愛子(愛する息子 新改訳)が主イエスのことであることが容易にわかる。 旧約のイザヤ5章では、イスラエルをぶどうの園にたとえている。またヨハネ福音書の15章でもぶどう園の主は父なる神にたとえられている。預言者たちが多くの侮辱を受けて殺されたことは歴史的事実である。

 そして、ここに至り祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスに質問して、議論をふっかけて、批判し、「隅のかしら石」として救い主を捨てるのである(詩篇118:22,23)。「家造りらの捨てた石は、隅のかしら石となった。これは主のなされた事で、われらの目には驚くべき事である」

 この箇所を文脈で読んでいくと、先の権威の質問とこのたとえ話は、関連していることがわかる。12:1で、「そこで」「そして」と訳されており、前文の続きである。祭司長たちは、礼拝すべき神殿が神によって預けられているにも拘わらず、それを私服を肥やす暴利の場所としてしまった。本来、神のものであるはずの神殿が、ユダヤの宗教家たちのものになっていた。それは悪い農夫と全く同様である。私たちはそのようであってはならない。 「わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえられるからである」(イザヤ56:7)とあるとおりだ。

 神の教会は、社交場でも商売の場ではない。礼拝の場であり、聖なる神の民の交わりの場であり、キリストの御栄えが顕される場である。 そのためにも互いに信仰の実を結ぶ地域教会として成長していきたいと思う。

 さて、年度標語に掲げた「喜びの教会」と言えばピリピ教会であろう。4:1にこのような御言がある。「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠(働きが結んだ実 LB訳)である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」とある。ピリピ教会のクリスチャンは、使徒パウロの働きの結実であった。そのことをパウロは喜びとしていたのだ。けれども、そのピリピ教会も完全に出来上がった教会ではなかった。

 信徒同士の対立問題があった。「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」(2:3,4)。「どうか、主にあって一つ思いになってほしい」(4:2)。
 また、ユダヤ主義者(割礼を受けなければ救われないと主張する人々)の危険もあった。「あの犬どもを警戒しなさい。悪い人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい」(3:2)。
 さらには、反律法主義者(律法廃棄論者の欲望の赴くままに邪悪な生活をしている人々)の問題もあった。「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」 
                                                (3:18,19)。

 そこで、パウロはピリピ教会のクリスチャンに対して七つの信仰の結実の勧めをした。
①一致(2節)。「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになっほしい」。一致のあるところに教会の力が発揮され主の証しがなされる。しかし、恵まれているはずのピリピ教会に婦人たちの人間関係の問題があった。そのことが教会成長に影響を及ぼしていたのだ。

②喜び(4節)。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。これは恵まれている自分を喜ぶのではなく、恵んでくださったイエス・キリストを喜ぶのである。十字架を喜ぶ。

③利己心のない思いやり(5節)。「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。再臨のキリストが来られる時、すべてが明らかにされる。誰も主の前に偉そうな態度はとれない。主を待ち望む人は、主を近くに感じて人に対して寛容であることができる。自我の己に死んだ人は、主のやさしさに触れ他者を包み込むことができるようにされる。

④神の平安(6,7節)。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めることを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。それは、神との平和(和解)であり、試練と苦難の中での主の臨在による平安であり、いつまでも絶えない永続的な平安でもある。

⑤他人の長所を認める(8節)。「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に価するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。徳島県鴨島の恩師伊藤栄一牧師は、悪痴先生と呼ばれていたそうである。「音痴」は聞いたことがあるが、「悪痴」とは、あまり聞かない言葉である。悪痴の人とは、どんな人にも良いところを見つけて褒める人のことである。伊藤師はそのようなお方であった。

⑥足ることを知る(11節)。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。これは、信仰者がスーパーマンになるということではない。弱い者なりに主が共におられることを信じ、そのお方に頼って、必要にしたがい支えられ、主の力を得て精一杯生きるができる。

⑦献げる心(15節)。この賜物はすでにピリピ教会にはあった。益々そのことにおいて豊かになるように語っている。「わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実(天に宝を積む豊かさ)なのである」(17節)とあるとおりだ。

 完全数である七つの信仰の実を結ぶことは困難に思えるが、それらを神が満たしてくださるとの約束がある。
「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって、満たしてくださるであろう」(19節)と。 かつて、柘植不知人師は、西条彌市郎師の導かれる京都の群を訪問する際に、「私は、あなたがたの教会の献金額や盛んに集まっている教勢の様子を見たいのではありません。教会員の信仰の結実を見ることを願っています」と、語っておられたとのことである。私たちも傾聴したいところである。
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