| この手紙の著者がペテロであることは明らかである(1:1,5:1,2)。伝承によるとペテロは、晩年皇帝ネロの迫害で殉教したと言われている。おそらく執筆年代は、AD63年頃であろうと思われる。5章13節によると「バビロンの教会から」とあるが、執筆した場所は、ローマを指していると考えられる(バビロンは象徴的表現)。 ペテロは、迫害下にあるキリスト者を励まし、教会の世俗化を警告し、教会内で権力を振るう長老への注意を促している。宛先は、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに離散し寄留しているキリスト者である(1:1)。 この手紙は、苦難にある教会を励ますためにキリストの苦難が強調されている。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」(2:22-24節)。 そして、ペテロは、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と命じられた主イエスに従い、死に至るまで、託されたキリスト者の信仰を導き養い続けた(4:12-19)。 さて、今回も新年にあたり大切な真理の言葉により心備えられたい。よく多くの信者が使徒ペテロの弱点と欠点などの人間味あふれる人と成りに共感し慰められ励まされると聞く。彼は、衝動的であり、軽率で、動揺しやすく、恐れ、疑い、感情的にむらがある。 かつてのペテロは、ある意味で優等生的ではなかったので、一般的に信者が自分の人間的弱点や欠点に重ねて見ているのではないかと思われる。私もペテロのことが大好きである。 1974年19歳の頃、ゴッドフレー・バックストン師(バークレー師の息子)の聖書講演を聞いたことがあった。その時、どういうテキストで語られたか忘れてしまったが、一つだけ記憶に残っていることがある。 「ペテロは、確かに失敗と過ちの多い弟子でありましたが、いつまでもそのままであったのではありません。彼は後にきよめられ成熟した信者になったのです。私たちもそのようにきよめられ聖霊に満たされた者となりたいと思います」という言葉である。 この1章でも語られている。「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者《原語で聖であるという言葉はハギオスという。普通の者とは異なった者の意、神の選びに与った神の人のこと》になるべきである』(レビ記11:44,19:2,20:7,2:6)と書いてあるからである」(14-16節)と記されているとおりである。 主なる神の私たちに対する御心は、「聖なる者」としてきよめられた信者として成長することなのである。 私たちは、神に選ばれ、召され、キリストの御宝血により救われたのであるから、きよく敬虔に生きていかなければならないのだ。 ところが、最近「きよめ派」の教会でも「聖化」について語られなくなってきたと言われている。その理由の一つに、聖書の中心的教えとして、「きよめ」の位置づけを失ってきたと言う人がいる。以前から「きよめ」のことを第二の恵み、瞬時的きよめ、罪性の根絶とかが強調されたことによって、そうなれない人たちがいて傷ついてしまい否定的意味を感じるようになり、牧会上の問題としてかつてのように強調されなくなったのではないかと説明していた。 「己の死」「十字架の死」「自我の磔殺」などの用語の表現に行きすぎがあり、クリスチャンホームの子どもまで信仰に躓いてしまっているところから教会として再考しなければならないと言う訳である。 そう言われれば、過去のすべてのきよめ派の教会の「きよめ」の説教の内容と伝達法について反省や改善や言葉選びの問題が全くなかったとはいえないだろう。 確かに言葉の「ひとり歩き」で信者に誤解や混乱を生じさせたことがあったかもしれない。それは、説教者の未熟さや知識や人間理解の洞察不足があったからではないかと思わされている。しかし、だからといって教会がそのテーマは厄介だから語るのをやめよう、などと考えてしまうならば本末転倒である。 「きよめ」は、聖書の真理である。聖書が語る信仰である。教会は、語り続けなければならないと思っている。神の言葉は、永遠に残るものである。「『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である」(24,25節)。 聖書全巻を貫き通る御言を皆で聴こうではないか。 まず、第一にきよめは「神的な神のご要求である」(第1ペテロ1:15,16)ことだ。第二は「人的要求であり聖徒の願望でもある」(心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。マタイ5:8)。きよめは、教会の信者相互の一致、信者の奉仕、再臨の備え(パウロ書簡に数多く教えられている)のためにどうしても必要である。にもかかわらず、ある人々は、きよめは到底到達することができないものであるとか、きよめの強調は、旧約聖書の律法に代わって信者を拘束し悩ませ苦しめる悪しき教えのように主張している。 これは、きよめの標準を正しく正確に把握していないところから起こるものであると思う。特に、きよめが何でないか、ということを知ることは重要である。それによって、きよめを求める信者の霊的な混乱や誤解などの手かせ足かせを取り除くことになると考える。 ①アダム的絶対的完全ではない。原罪を負う以前に戻るのではない。罪赦された罪人であることに違いはない。 ②誘惑なき完全な状態ではない。きよめられた後も誘惑を受けることがあり得る。誘惑に勝つ秘訣を持つ。 ③判断に過ちなき完全ではない。物事の考え方や選択において完全になるのではない。 失敗しない完全ではない。過ちに陥るならば、再び三度やり直すことはできる。悔い改めと回復の信仰である。 ④身体的、精神的問題からの解放ではない。生身を持っている弱い人間として、病気になることもあり、 心身ともに衰弱することも、試練に遭うこともある。聖書には、そのような信仰者が登場する。 きよめの成熟にも繋がっている。 ⑤堕落する可能性がなくなる完全ではない。罪を犯す可能性がなくなるのではない。 罪を犯さない可能性があるのだ。霊的「免許皆伝」のことではない。 内なる罪の性質に対して処する秘訣を知る者とされるのである。 ⑥成長なき完全ではない。きよめはこれ以上進まなくなるような状態のことではない。 きよめの信仰は、瞬時的、意志的、意識的、決心して入っていく信仰(アオリスト・テンス 《瞬間的きよめの文法用語》であるが、その体験のみを強調するものではない。 きよめの信仰は、漸次(ぜんじ)的に、日々、時々刻々、神と共なる信仰生活をすることなのである。 今回はそこまでにさせていただきたい。 またの機会に、聖書的なきよめとはいったい何なのかを学ぶことにしたい。 とこしえに残る神の御言葉によって、きよめの信仰に正しく導かれ、 ペテロのように与えられた人生を導かれていこうではないか。 |
題「永遠に残るもの」第一ペテロ1:22-25
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